第11回金沢創造都市会議

金沢創造都市会議2021 >セッションA

セッションA「『兼六園周辺文化の森』の深化と発信」













座   長:砂塚 隆広  (金沢経済同友会代表幹事)
パネリスト:水野 一郎 氏(金沢工業大学教授、谷口吉郎・吉生記念金沢建築館館長)
      岡  達哉 氏(金沢星稜大学教授)
      馬場先恵子 氏(金沢学院大学教授)
進   行:鶴山 庄市  (金沢経済同友会副代表幹事)

(鶴山) セッション2の進行を担当いたします鶴山です。よろしくお願いいたします。私は文化に一番縁遠い男なので、パネリストの皆さまを含めてご協力いただければと思っております。
 先ほどはセッション1で、非常に具体的な、かつ刺激的なお話もお聞かせいただきました。このセッション2も、セッション1と密接に関連してまいりますが、あえてセッション2では、「『兼六園周辺文化の森』の深化と発信」と題して、皆さま方のいろいろなご提言を伺っていきたいと思っております。
 申すまでもなく、金沢は石川の文化の中心地であります。文化は都市の品格を形づくり、そこに住む人々、市民の誇り、あるいは地域への愛着を醸成するものです。文化を持続していくには、現状維持ではなく、常に前進する、つまり磨きをかける姿勢が必要であるということは言うまでもないと思っております。その中で、兼六園周辺は金沢の文化の中心であり、象徴でもあります。そこで、このセッションでは、一点集中で、兼六園周辺を徹底的に磨き上げ、ここ金沢に住む人々が、また訪れる方々に、ここでしか味わえない本物を学び、感じてもらえるようにすることが、将来にわたり、魅力ある文化都市であり続けるために必要であるという認識から、議論を進めたいと思っております。
 最初に、「兼六園周辺文化の森」とは、その捉え方や現状認識につきまして、都市計画や景観、あるいは観光産業、市民意識や生活面などのそれぞれのご専門のお立場から、兼六園周辺文化の森を少し語っていただければと思います。
 最初に、水野先生からお願いできますでしょうか。

(水野) 水野でございます。それでは早速始めたいと思います。
(以下スライド併用)

 

 

 

 



これは金沢の都心の空撮です。
 犀川と浅野川と言う二つの川は、富山県境の山岳地帯から源流を発して、中山間地域や里山を通って、この都心を通って、さらに農業用水、平地をたどって海まで注いでおります。すなわち、二つの川は、源流から河口まで金沢市内でございます。
 そして、その間に卯辰山の丘陵地があります。それから、小立野台地、寺町台地があります。三つの台地があり、その真ん中の台地の先端に金沢城があります。兼六園があります。それから、この台地の斜面のところに緑があり、辰巳用水を通したことによって、ここからいろいろ落ちていって、さまざまな用水となります。
 すなわち、この水と緑に恵まれた台地の上と台地の下とを含んだ、この緑のゾーンを「兼六園周辺文化の森」と称しています。
 一向一揆が金沢御堂を構えたのがこの台地だといわれています。その後、佐久間盛政あるいは前田利家などによって、ここから出ていって江戸幕府に至るわけです。その後、明治維新の廃藩置県を経たときに、ここが軍や学校で占有されていきます。そして第2次世界大戦が終わって軍が解体されると、ここに大学が入ってきます。大学が成長して、ここから出ていって、今公園になっています。
 すなわち、よく考えてみると、ここにはその時代の最もパワーのある者がいたということであろうかと思います。百姓の持ちたる国として、一向宗がここにおりました。それから江戸時代の百万石城下町として前田家がおりました。維新後は、ここに軍隊が入りました。終戦後、軍が解体されると、新制大学が入りました。新制大学が成長して出ていった後に公園になります。公園になったら、もうあまり変わらないのではないかと思うほどですが、そういう歴史を歩んできています。
 すなわち、ここの中には金沢の450年の歴史が蓄積されています。先ほどの町家もそうでした。金沢21世紀美術館もあります。そういった450年間の時間的な蓄積と空間的な蓄積、これがこの図に表れていると思っています。
 その空間的なものとして、重要文化財のお城関係があります。それから明治の建築、あるいは戦後の建築、あるいは近年の平成の建築、そういったものがずっと集積しています。


 現代になって、金沢21世紀美術館、鈴木大拙館、あるいは今、いしかわ生活工芸ミュージアムになっている前の県立美術館、それから本多の森ホール、兼六園球場から本多の森ホールになりました。こういう施設が空間的に分布しています。
 ちょっと異質なものがここに建っています。これはNTTのビルです。


 昭和56年に、このゾーンに対して、兼六園周辺文化ゾーンとして、ひとまとめに考えた方がいいのではないかという提案が行われます。昭和56年ですから、今から40年前ということになります。

 ここに至る前に、実は金沢にとってエポックメーキングな時期がこの15年ほど前にありました。それは昭和43年です。それはどういうことかというと、片町香林坊近代化事業が竣工したのが昭和42年です。金沢は焼けなかった、戦災を受けなかった、これは焼けなくて良かったという形で戦後スタートするわけです。そして、すぐ国体があったり、美術展がすぐ開かれたり、あるいは演劇活動がすぐ起こったりします。すなわち、日本の中で数少ない焼けない都市としての幸福感に浸るのですが、戦後10〜15年たつと、戦災都市が近代的な都市計画を基に新しく生まれ変わってきます。そのときに、「あれっ、金沢は焼けなくて良かったと言ったけど、本当かな? 焼けていたら、どうなっていたんだろう」などということで、少し立ち遅れ感が出ます。そのころ、「一周遅れ」という言葉がはやります。一周遅れを何とか繕うことが、片町香林坊近代化事業でした。それは近代化事業という名の下に、都市を不燃化するということが日本の大きな目標でした。それで木造の町家、商家をコンクリートや鉄骨の商家にどんどん造り替えていきました。そのときに中心の道路を拡幅して車に合うようにして歩道も造り、拡幅すると同時に壊しました。壊して鉄骨や何かに造り替えていくのですが、そのことによって、日本中どこも同じ景色をつくったのです。
 そのときに、建築家の谷口吉郎さんたちが金沢に来て、金沢のまちが日本中の平均的な都市と同じになっていいのかという問い掛けをします。それが「金沢診断」です。そして、その翌年、昭和43年に金沢市は日本で初めて、金沢市伝統環境保存条例を定めます。そのときに決めたことは、伝統と創造、保存と開発という対立概念を、苦しいけれども、その方法をたどっていこうではないかということを基本方針、都市づくりの戦略の理念とすることです。それは、ある意味でいうと、その当時では革新的な条例でした。ほとんどの都市がアメリカナイズされて、どんどん車に合う都市と、効率的な機能的な都市計画、高層ビルが立ち並ぶ都心というものをつくってきましたが、それに対して、都心に公園、庭園、広場を配し、歴史的蓄積の保存継承と美術、工芸、演劇、音楽、博物等の文化創造のゾーンとするということを、この都心で決めるわけです。昭和40年の前には兼六園球場がありますが、後に厚生年金会館になったりします。
 それから、県庁や附属の学校がありますが、どんどん文化施設へ転換していく。そういう基本方針を決めたのです。


 この提言の要旨は、先人の蓄積を保存し、継承していく。多様な価値観や美意識の蓄積は、将来の創造への贈り物だと理解するということです。文化の創造と、それを通して新たな蓄積を目指す。新しいものへ挑戦しようということです。文化とは攻撃的であり、エネルギッシュなものである。この議論はかなり激しく行われました。それから良好なる環境を形成し、快適な営みを可能にする、そういう空間をつくろうということです。
 具体的提案としては、県庁の移転や金沢大学の移転の提案も入っていました。ある機能のものがそこに立地していると、それ以外のものは入ってはいけないというゾーンになりかねない。そうではなく、このゾーンは全ての人が自由に出入りすることができることを前提にしようというような提案が出されます。
 それから国立工芸館が欲しいとか、国際会議場が欲しいということがあります。石垣周辺に施設が15施設ほど立地していて、それを全部撤去して、周りから石垣が見えるようにしようではないかという提案をして、早速行動に移します。
 それから歴史的建築の保存・再利用も進みます。例えば県の歴史博物館の建物は、当時金沢美術工芸大学が入っていたのですが、美大が撤去されて荒れていました。その荒れた状態は悲しい、これを何とか利用しようではないかということで県にお願いしております。
 このようなことを含めていろいろな整備を行いました。
 すなわち、挑戦的にこのゾーンをつくるという姿勢を明確にしていました。


 これはちょっと前をたどるのですが、江戸時代は、お城や兼六園の部分が前田家の用地です。緑色っぽいのが家臣たちの上屋敷です。
 それが明治維新になって廃藩置県が行われたときに、ここは軍の用地になります。それから兼六園は庭園として保存されます。それから藩士たちの上屋敷は、練兵場や師範学校、県庁、第四高等学校、軍用地、二中というように、いろいろな形で使われます。


 東京の上野文化の杜は、中央に噴水広場があります。寛永寺がありますが、戊辰戦争で寛永寺の境内であった広範囲が焼けて、その後、恩賜公園になります。その恩賜公園が中心となって、さまざまな国のレベルの施設が立地します。あるいは東京都の美術館や東京都の上野動物園なども立地します。
 ここは国の文化ゾーンとして整備されていきます。この面積は大体83haです。こちらに接して東京大学があったり、岩崎邸の庭園があったりします。すなわち、ここも日本の文化ゾーンです。

 京都の岡崎です。京セラの美術館、府立図書館、近代美術館、勧業館。勧業館は工芸中心ですね。ロームシアター京都、これは文化会館です。それから岡崎公園、京都の動物園。それから南禅寺、琵琶湖疏水、平安神宮などといった京都の施設です。この辺に庭園がたくさんあります。すなわち京都の文化ゾーンです。


 金沢の文化ゾーンは、先ほど上野は83haと言いましたが、ほぼ80haで同等ぐらいです。すなわち、この小立野台地の先端の水と緑と文化施設・歴史施設の建っている現況と、水と緑に溢れた地域であること。それから犀川、浅野川に挟まれた、450年の歴史を積み重ねた金沢の旧市街地の真ん中です。そういうことを含めて、この周辺文化の森をつくっていこうではないかということでございました。
 こういう現況でございます。この現況から次に何を考えてわれわれはやっていったらいいのかということを今日みんなで考えたいと思っております。

(鶴山) ありがとうございました。水野先生は、行政機関をはじめ、各種検討会、懇話会、委員会等に数多く参画していらっしゃいますので、水野さんならではの歴史の振り返りといったものを含めてお話を頂きましたし、文化の森というものの区域や現状認識について触れていただきました。
 それでは、岡先生、いかがでございましょうか。

(岡) 資料なしでの説明となりますが、お許しください。大学教員が物事を語るとなると、理屈、数字、定義などでびしっと分かりやすく申し上げないといけないというイメージがあります。しかしながら世の中には、そういったものではっきり示すことはできないけれども明らかにそれが良いものである、素晴らしいものであると心で分かるものが存在していると私は思っております。
かつて実務家として経験した仕事では暴力的な言葉が行きかうような場面もあったのですが、そういうときにふと感じるのは、自分が何者かということでした。人間として人として、自分はどうなのだろう、なぜこの世の中にいるのだろう、といったようなことを問い掛けることがありました。
この文化の森という場所を知り、そこを歩き、あちこちに息づく歴史に触れたとき、歴史という長いスパンの中でみれば一人の旅人にすぎない自分の小ささに気付くことができます。工芸などの文化に触れたとき、人間の想像力のたくましさ、古いものの素晴らしさなどさまざまなことに気付かされます。またこの文化の森に存在する自然や用水に触れたとき、生態系やエコシステムの中で生かされている自分とその小ささに気付かされます。
目の前の仕事や業務といった日々の現実に引き戻されるものがそこにはほとんどない空間であるということが、この文化の森が持つ貴重な側面だと思います。そこで自分がピュアに内省し、研ぎ澄まされた感覚を持って、また新しい人生を生き直すということを可能にしてくれる、それがこの空間だというふうに私は思っております。

(鶴山) 分かりました。 ある意味、哲学的な感覚でお話を聞きしました。 それでは続きまして、馬場先先生いかがございますか。

(馬場先) 馬場先でございます。よろしくお願いします。
 まず、兼六園周辺文化の森についてですが、そもそも金沢というのは、加賀藩の伝統文化が受け継がれて、現在でも残っている、そうした土地です。そして、伝統文化がこのように受け継がれてきたのは、戦災で焼け野原になってしまったようなまちではなく、残された環境があったからです。環境の断絶がない中だからこそ継承されていけたのだと思われます。しかし現在、そうした歴史的な環境も、先ほどのお話でもありましたように、例えば金沢町家は今6000軒ほどしか残っておりません。しかも毎年100軒ずつほど失われていっているというように、金沢のまちの中で歴史的な建物というのも、どちらかといったら少数派であります。また、こうした伝統文化、あるいは歴史的な文化的なたしなみというのを身に付けている人も、どちらかといったら少数派になってしまっているのではないかと思います。
 そうした伝統文化を受け継いでいくためには、伝統文化とまちの環境というのはセットで守られなければいけないと思いませんか。そうした本物のまちにこそ、本物の文化が受け継がれていくことができる、そういうふうに私は考えております。そしてまた、それを後世につないでいくためにも、市民がまちの変化に責任を持たなければいけないと思います。
 ところで、この兼六園周辺文化の森一帯は、文化財保護法における重要文化的景観区域です。この重要文化的景観区域というのは、金沢の城下町の都市構造を継承し、城下町が醸成した伝統と文化を継承していると認められた景観区域です。そして、この文化の森という区域は、その中核を成すところである。そして、それが現在は、市民が共有できるゾーンとなっている。つまり、兼六園、金沢城郭、さらに、隣接する公共施設である博物館や美術館、歴史的な建築物、そうしたもの全てが含まれた重要文化的景観区域の中で文化の森は、その中枢的な存在を成しているのだということです。
 そうなると、金沢市民、あるいは金沢にとっての文化の森の存在価値を考えると、シンボル的な存在であるということ、そして、歴史の集積の場であると言えると思います。シンボル的な存在。これは城下町の時代には、為政者の拠点でありまして、どちらかといったら近づき難いような存在でした。しかし今は市民に開かれて、そして市民の拠り所となるような、そうしたシンボル的な存在であると思います。また、その環境というのが、凛としたたたずまいの中で本物が集積している場である。歴史の本物が全部集まって、そこで見ることができるのだと言えると思います。すなわち、歴史の集積を体感する場であり、さらに、そこは市民の憩いと学びの場になるべき、そうした存在であるというふうに考えております。そうした中で、この中をより洗練した環境にしていくことを今後考えていくべきだと考えております。

(鶴山) ありがとうございました。文化の森というものの、ある意味、意義付けという観点からお話を承りました。
 それでは、本セッションの座長をお願いしております砂塚さん、いかがでございますか。

(砂塚) 先生方のお話をお聞きして、なるほどなと思うところがたくさんありました。スタート地点に戻って申し上げると、金沢というのは武家文化のまちであるとよく言いますが、そのことに関して、全く異存はありません。私もそうですが、一般の方は、前田利家が入城してから金沢のまちが始まったのだという認識を漠然としながらも、動かし難い部分として持っているわけですが、実を言うと、金沢のまちというのは、さらに100年以上さかのぼったところにスタートがあるということを改めて認識しなければならないのではないかと思っております。
 来る前に事実関係をメモだけしてきましたが、前田利家が金沢に入ってきたのが1583年で、その前に、金沢城の本丸付近に真宗の拠点である金沢御堂(尾山御坊)という御堂が造られました。これが前田利家の金沢入城から約40年さかのぼる1546年ということなのですが、さらに金沢のスタートというのはさかのぼらなければならないということです。1488年に、一向一揆の宗徒が高尾城、今の金沢の南の方ですが、ここにあった富樫政親という守護を攻め落として、そこから百姓の持ちたる国がつくられたという中で、このあたりが金沢のスタートと言ってもいいのではないかということなのですが、歴史の先生に言わせると、さらにさかのぼるのだということです。
 本当の原点と言えるのは、金沢学院大学の名誉教授の東四柳先生にお聞きしたところ、今の武蔵ヶ辻の近くに久保市乙剣神社がありますが、南北朝時代に、あの辺りに市(いち)が立っていて、それが金沢の本当のスタートといえるのではないかということです。そこまでさかのぼらなくても、一向一揆の宗徒が金沢一帯を支配した。そこの中心に、今の金沢城の御堂があったということを考えると、金沢のスタートは、これまで漠然と考えてきた前田利家の入城よりも100年以上さかのぼらなければならない、これをまず一つ押さえるべきではないかと思います。
 もう一つは、兼六園周辺文化の森という言い方をしていますが、金沢市民というか、われわれもそうなのですが、あの一帯を空から見下ろした写真は、先ほど水野先生がおっしゃった、緑で覆われた80haのゾーンですけれども、これを考えるときに、何となく3枚の写真を頭の中に入れているのではないかと思います。兼六園が1枚、金沢城址が1枚、本多の森が1枚。これを別々に見ているのではないかと思いますが、これも、これからは今回のテーマになっている「兼六園周辺文化の森」という言葉で一つにくくって考えながら、この一帯の文化をどう深めていくかということを考えていかなければならないと思っております。

(鶴山) 歴史性といいますか、その区域の持つ歴史を大切に、あるいは認識しながら物事を捉えていくことの大切さかというふうに思います。
 4人の方々のお話を承ったわけですが、いよいよ次に、兼六園周辺文化の森というものに磨きをかけるための方策をテーマに、具体的ないろいろなアプローチ、捉え方、方策について、それぞれのパネリストの皆さまからお話を承ろうと思っています。公園としての整備、再編、諸々景観の問題、文化の森に対する人々の誘導などいろいろなことがありますが、そういった多岐にわたる観点から皆さまにお話を承りたいと存じます。
 それでは、今度は、最初に馬場先先生からよろしくお願いできますか。

(馬場先) 文化の森に磨きをかけるということで進めていきたいと思います。先ほど、市民にとって、この文化の森の存在価値というのはシンボル的な存在ではないか、また、歴史の集積の場としての価値があるのだというふうに申し上げました。そこで、この歴史の集積を体感する場としての、その場の景観をもっと洗練させていってはどうか。あるいは、現在どういった問題があるのだろうということが1点。また、市民の憩いと学びの場として、現在の歴史的な環境あるいは文化を学ぶ場としての活用に、さらにもう一味、触れ合いについて工夫ができないかということを考えてみました。
 場の景観の洗練について、シンボルの森を外から見る場合、あるいは、その中で見る場合など、中の景、中から外の景、外から中の景という、こうした3通りに分けて、それぞれの見え方を見てみたいと思います。
 まず中の景ですけれども、河北門や菱櫓で始まった平成の築城。それから、玉泉院丸庭園ができて、また、令和になって鼠多門も造りました。さらには、今、二の丸御殿もいろいろと調査して、これの復元が一部でもできないかという話が進んでおります。さらに、本多の森には、歴史的な建物を生かして、いろいろな美術館、博物館、工芸館もできました。このように公共事業が主体となり、また公共施設が集積して、中の景としては、歴史や文化に浸ることのできるような空間として、現在もその整備が進められているような状態だと言えると思います。


 続きまして、中から外の景を見たときには、中からの見晴らしという意味で、眺望というもの、あるいは中の景を楽しんでいるときに現れる背景としての、周辺建物との関係が出てくると思います。
 では、眺望です。昔は城から外を眺めることができました。二の丸から専光寺浜の眺望というように、海の方まで見渡すことができた、そうした絵がありました。現在、調査中だったので、二の丸の端っこから外を眺めようと思いましたが、中の木で外の景観は見ることができません。
 あるいは、極楽橋から宮腰往還の方向を眺める景観。これは実は、この宮腰往還を直線に造るときに、夜にたいまつをともして、まっすぐな道路を造ったというように眺めることができたのですね。しかし現在は、やはり中の樹木で覆われて、外の景観を見ることができません。
 今は城内の樹木で見えない場所が多い。これはこれで中の景をじっくりと楽しむということで、一つの見方だと思って、現在の森の特徴だといえると思います。このまちの中心に、こうした森が一群としてあるというのは非常に素敵な空間だと思います。
 ところが、今は、まちの建物が見えてしまうような場合もあります。眺望を妨げる建物として、そうしたものが見えてしまって、せっかくの眺望景観が台無しになってしまうという場合もありました。そこで、金沢市の高さ制限の変更を行った事例を幾つか紹介したいと思います。

 過去江戸時代には本丸から河北門、大手門を通しての景観が見えたと思うのですが、その軸線の中で、現在は残念ながら、大手町方向に高さの高いビルが正面に見えてしまうというような景観になってしまいます。これは実は、その当時、高さ制限が尾張町近辺は31m以下まで建てることができましたが、例えば全部建物が建ってしまった場合に、このように二の丸の高さよりも高い建物が建ってしまうというような高さ制限の値でした。
 ここは重要文化的景観区域の範囲でもあったので、最高の高さを三の丸の高さを超えないまでに抑えておこうというように今整備を行い、規制値を変更したというような事例があります。

 またこれは、辰巳櫓跡から広坂方向を見た写真です。
 昭和8年ごろの風景と比べると香林坊寄りの方はもう樹木で見えない景観になっていますが、まだ本多町寄りの方向、寺町の方に見晴らしの良い、こうした眺望が確保できています。ところが、実は広坂通りの、しいのき緑地の向かいのこの辺りも、同じように31mの高さ制限値がありました。もしもずらっと建ってしまうと、辰巳櫓跡の高さから遠方を見晴らすことができないような建物が並んでしまう恐れがありました。そこで、そこを20mまで抑えることによって、このように広坂通りは同じような高さの建物がそろうように抑えることができたという事例も紹介させていただきました。


 ただ、今の眺望景観というのが、お城でも標高の高いところから見晴らした場合なのです。現在、玉泉院丸庭園が整備されましたが、そこで意外な発見が出てしまいました。鼠多門橋から見た風景ですが、これを見ると、鼠多門橋のこちら側が玉泉院丸庭園で、向かい側とあまり標高の差がないのです。そうすると、そこに隣接するところに建っている建物が意外な影響を及ぼしてしまうということです。いざ、玉泉院丸庭園の中に入って、中の風景を楽しんでみましょう。


 このようになってしまうのです。これは広坂の合同庁舎なのですが、ちょうど隣接する建物が後ろにぬっと突き出てしまっています。このように昔は庭園内の世界に浸れた風景が、すぐ近くに無粋な建物が見えてしまうというような状態というのも、平成の築城、令和の築城で整備が進められていく中で現れてきた問題点だということができると思います。


 では今度は、外から中を見る、シンボルである森を見るときの見え方です。あるいは、その見る場所、視点場としての、シンボルの森の近辺の環境というものにも注目してみましょう。


 このシンボルの見え方は、昔は石垣とお城が見えていました。現在は、お城といっても、ほとんどその形跡はないので、どちらかといったら緑の森の固まりと、そして石垣が見えるはずです。ところが実は本多町の方から鈴木大拙館の方に行こうとすると、このこんもりとした緑の森の上ににょっきりと、やはり建物が見えてしまっています。先ほどちょっと話題に出ましたけれど、NTT西日本ビルです。こうした建物が、近隣のシンボルである、この森の固まりの上に出てしまうというのも、ちょっと惜しい景観かなと思いませんでしょうか。
 このようにシンボルの森にあるべき建物が見えているのはいいのですけれども、そこに似つかわしくない建物と言ってしまっていいのでしょうか、そうしたものが見えてしまうというのは非常に残念な景観になってしまっていると言えると思います。


 また、視点場の整備なのですが、例えば交差点などの重要な分岐点です。橋場町から兼六園下の交差点に到着したとき右側を曲がると、石川橋方向が見えて、いざ文化の森ゾーンに来たなと思うのですが、実は、その反対側を見ると、老朽化したビルが、この角にどんと建っています。この辺がちょっと残念です。せっかく、この周辺の道路は回遊性を考慮して行政もいろいろと整備しています。民有地については景観のいろいろな計画を立てて景観誘導を試みますが、やはり、ここでも民間の意識の向上が必要なのではないでしょうか。

 このように、場の景観を洗練させていくときに幾つか問題点が出てきました。シンボル自体は、公共事業で、いろいろと、より洗練された空間へと整備しておりますが、その周辺の洗練というときには、行政ではどうしても景観計画、景観規制による景観誘導という方法でしかすることができないのです。そうした場合に、官だけではなく、どうしても民の理解と協力が欠かせなくなってきます。

 続きまして、それとはまた別に文化との触れ合いの工夫について、ちょっと紹介してみたいと思います。
 まず、このエリアは歴史や文化を楽しむ場です。博物館や美術館がたくさんあります。また、石垣の博物館といわれるほど、そこの中の空間・環境自体、いろいろなものが存在しています。歴史的な建造物、建物を見るも楽しい、石垣を見るも楽しい、自然の中には珍しい動植物もある。美術の小径などいろいろな小道も整備されて、非常に回遊性豊かな空間であると思います。まさしく、知の回廊と言ってもいいのではないかと思います。こうした現在あるものを楽しむ、あるいは、博物館や美術館での歴史を楽しむ、その建物の中に入って歴史を楽しむというものもありますが、さらにそれに加えて、今は見ることができない環境を知る取り組み、知る工夫というのも、ぜひともあったらいいかなと思っております。

 例えば、これはよく知られている、辰巳櫓台の三段石垣なのですが、これは元々三段ではなく、上までずっとそそり立つ、高石垣でした。これは明治40年に、いもり堀を埋め立てる工事中に付近の石垣が崩れ、この高石垣も崩れてしまうといけないということで、三段に直したということを、市民なら、かなりの方が知っているのではないでしょうか。


 これを復元したような図も、本の中から持ってきたのですが、このような復元図を用いてその現場に行って、スマートフォンをかざすだけで、往時の姿を確認することができる。「ああ、昔はこんなだったんだ」と。歴史の痕跡をたどることができる、回遊もできるのではないかと思います。




 広坂通りの古い時代のスケッチを見ると、高石垣とその手前の、実は、しいのき広場も含めた一帯が文化の森空間だと示すことができると思うのですが、今はここに道路が一本通っています。いもり堀のあったところで、実は昭和初期あたりに道路が開通されて、現在はそこを車が通っています。当然ながら、江戸時代は、ここもお城の中の一つである、堂形でした。道路などはありませんでした。


 これは現況図との合成です。ここに現在のいわゆるいもり堀通りが通っていますが、ここまで堀があったのですね。そうした空間があったということを知る機会があったらいいのではないかと思います。例えばイベントのときには、この道路を車通行止めにして、自由に歩行者が行き来しバーチャルリアリティで昔の風景を映し出す。そして、ここまでの空間がお城の中であったのだということを体感できるような取り組みも面白いのではないかと考えます。


 これもよく出てくる写真ですが、石川門の前の堀が水で、まだ道路ができていない、堀があったような時代の、こうしたものも、やはりバーチャルリアリティで、そこの場で体感できると楽しいですよね。





 そのように、現在の残っている歴史・文化を楽しむ場、見て歩く、回遊して見て回るということにプラスして、当時の往時の姿を知るということは、市民の知的好奇心を刺激して、より多くの、この文化の森、あるいは金沢の伝統文化、そうしたものに興味を持ってもらうような一つのきっかけになるのではないかと考えています。


 以上のように、まず、文化の森の魅力を高めるために私から提案させていただきたいのは、場の景観を洗練させること、そして文化との触れ合いを楽しむ取り組みを工夫するということです。場の景観の洗練には、どうしても行政が主体となって洗練させていく必要がありますが、民間の空間も同じく洗練させていくためには、民間の理解と協力が必要であるということです。また文化との触れ合いを楽しむという場合、先ほどのような当時の姿を知るとか、もっと面白い、いろいろなアイデアを出していただきたいなと思います。これはちょっと頭の固い行政や大学の教員ではなく、大学の学生、民間の人がいろいろなアイデアを出し合って、そうしたアイデアをぜひ実現させるように、逆に今度は行政が協力をするのがいいです。このように官と民の協力によって、この文化の森の魅力がより高められるのではないかと考えております。
 以上で、私の発言を終わらせていただきます。

(鶴山) ありがとうございます。まさしく文化を知る、楽しむ。どうしたらそれを高めていくかという話の中で大変参考になりました。馬場先先生のお話では、具体的に、NTTの出羽町ビル等々、いろいろな施設名が出てまいりました。あくまでも今日のセッションの発言で、官も含めてですが所有者がいらっしゃいますので、決してその方々に了解を取って発言しているわけではございませんので、それは誤解のないようにお願いしたいと思っています。ただ、空間景観もそうなのですが、道路の問題も今提言されましたが、大変大切な視点であるということだけは、皆さんにご理解いただければなと思っております。
 それでは続きまして、岡先生からお願いいたします。

(岡) 改めまして、金沢星稜大学の岡でございます。専門分野である観光の視点から考えてまいりたいと思います。なお、観光客の方が住民より優先されて考えられるべきであるというような、観光客vs住民という二元論で申し上げるつもりではございません。これからの都市の在り方を考える上で、観光がもたらす功罪両面のインパクトというものを避けては通れないということで、多角的な視点から議論に少しだけ彩りを添えたいと思っております。
 ご承知のとおり、観光につきましては、コロナ禍にあってもふつふつと「観光したい」「旅行したい」という力が湧き上がっているという状況です。一般的に宿泊やフライトの予約が実際に行われる前の先行指標となる「検索件数」のデータについて、国連の傘下組織であるUNWTOのホームページで公開されていますが、この1年で検索件数は大幅に増えています。旅行意欲の高まりを受けて、いずれこれが実際に現象となって現れてくる。それは政策的に支援されるケースもあれば、長期休暇、連休などのタイミングになるかもしれません。いずれにせよ、コロナで危ないと思ったら控える、しかし落ち着いてきたらまた旅行意欲が高まるということの繰り返しで、昔と同じにはなりませんが徐々に以前のような状態に戻っていく可能性があります。そのときに備え、観光のネガティブな影響は最小限にする、ポジティブな影響は最大限にする、という準備を早めに進めるという視点は大事ではないかと思います。
 さて、「観光」という語は「国の光を観る」という中国の『易経』に基づく言葉ですが、やはり「光」とは何か、あるべきものは何か、ということをしっかり考えていくことが大切です。
 金沢には様々な「光」がありますが、金沢と東京との対比的視点から私がため息をつきながら思い出す絵が、歌川広重のこの絵(虎の門外あふひ坂)です。
 歌川広重の絵は、当時の旅人の様子や旅行形態を示しているという意味で観光史における貴重な史料でもあるのですが、この絵が示す場所はどこかというと東京都溜池周辺、今のアメリカ大使館のあたりではないかといわれています。現在はもちろん見る影もありません。この絵に関して、国土交通省で河川局長を務め、水問題の第一人者といわれる竹村公太郎氏は、今もわずかでもこのような水空間がまちなかに残っていれば、東京の人たちも肌で感じた、水質が命に影響するということも感じた。上流部で山奥の森林が自分たちを守ってくれている、自分たちが生かされているということにも気付けたのではないか、そのようなことを指摘しておられます。金沢の用水の価値に、改めて気づかされます。
 そのように、大事なものを守り、大事でないものをいかに見極めていくかということですが、まず出発点として、観光の経済面に注目すれば、やはり泊まってもらってなんぼというところがあります。日帰りに比べて宿泊した方が旅行者の単価が3倍ぐらい高いという状況は過去10年間変わっていません。
 一方、金沢市の観光調査結果報告書によると、金沢観光は1泊が6割ですが、2泊も増加して3割ほどになりました。0泊というのも1割程度おり、日帰り旅行で金沢の何が分かるのか疑問ですが減少傾向にあります。0泊という方々が1泊、2泊してくれる、1泊の方も2泊してくれる、2泊の方は3泊、というような形で、金沢の隅から隅まで、観光客にも金沢の歴史・文化に想いを馳せながら理解してもらいたい。これが観光の経済効果にもつながり、地域を、文化を支えるための資金源にもなっていくということです。

 さて、セッション2のテーマである『兼六園周辺文化の森』について、以下簡略に「森」と申し上げますが、水野先生がご紹介してくださったこの「森」のイメージにつきまして、私は「ゆっくり滞在して鑑賞したくなる場所」、大変平たい言い方で、味わい深くも何ともありませんが、そのように考えています。
観光の視点からこの「森」をみると、さらに磨きをかけるべき3つの魅力的な要素があります。第一に文化・自然の「集積の利益」、第二に「回遊性」、第三に「創造性・精神性」です。これら3点について順にお話ししたいと思います。

第一に、文化・自然の「集積の利益」。金沢らしさを伴わない、ピュアでないものが交ざり込むのではなく、文化・自然に直結したものがここには集結している。このような状態にある「森」を隅々まで見るということが観光客にとっての魅力となります。
観光には「季節性」という問題があります。金沢の場合、やはり冬に観光客が減るという傾向があります。一方で、専門家である佐々木先生の前で大変僭越ですけれども、イタリアのボローニャを拝見すると、観光客数は金沢より少し多く、季節性が少なく通年で常に観光客が来ている状態であることが見て取れます。
 「季節性」があると、観光客が少なければ少ないで観光関連のビジネスは困ります。余剰人員の問題も生じますし、客が来なくても常に固定費がかかるので、稼働率を少しでも高めていくことが必要です。一方で、一定のキャパシティを超えた観光客の存在は、混雑問題、環境問題などを通じて地域にダメージをもたらします。当然ながらコロナ禍では、なおのこと大問題となります。微妙なさじ加減が必要ですが、季節性について平準化を図ろうとするのが観光のマネジメントということになります。
 面白いことに、兼六園ではやはり4月の春先、桜の時期に観光客がどっと押し寄せます。一方、人数の桁は違いますけれども、例えば鈴木大拙館は秋に観光客が多く訪れています。このような文化施設の組み合わせにより、「文化観光」や「クリエイティブツーリズム」は観光の季節性問題を緩和する平準化機能を発揮することが期待されます。この視点は、「森」の真価を観光的側面から理解する上で重要です。さまざまな金沢の文化施設の過去10年ほどの入場者数をグラフにしてみると、とりわけ鈴木大拙館、いしかわ生活工芸ミュージアム、成巽閣などが着実に伸びている様子が見て取れます。
つまり、これらの施設が配置されている「森」の奥の方、あえて奥という表現を使いますが、そこに一層の発展の余地があると考えられます。先ほど申し上げたとおり、集客人数でみれば金沢21世紀美術館・兼六園・金沢城とこれら文化施設とでは大きな違いがあります。しかし観光を切り口に「森」を見つめ直せば、「森」の奥周辺を含めて文化的な「集積の利益」を活かせる余地がまだあるはずだということです。

 二つ目は「回遊性」です。歩ける、歩きたくなる。回遊性という表現は先ほど長谷川館長や馬場先先生もお使いになっていましたが、観光では、やはり歩くと疲れます。疲れると休みたくなる。もう一泊してゆっくりしたくなる。実はこのような考え方で観光地づくりが各地で進められていたりします。温泉観光地はまた別で、温泉を楽しむための長期滞在という行動もあるのですけれども、温泉資源に依存しない場合の観光マネジメントでは、「歩ける」ということにさまざまなメリットがあります。疲れていただくことで、滞在期間・宿泊日数が伸び、経済効果はもとより地域に対する理解の深化にもつながります。
観光客が道路空間を通じて施設間を移動するのはどこでもあることですが、先ほどから話に出ている「回廊」という考え方に照らすと、金沢には車が入り込めないさまざまな小道があります。私は由布院に住んでフィールドワークをしたことがあり、小道は由布院の魅力の一つでもあるのですが、金沢のこの「森」の回廊を形成している小道はとても素晴らしく、どこを歩いていても自分の心が研ぎ澄まされ洗われていくような気持ちになります。
 ちなみに、金沢市が実施している調査によれば、金沢を訪れた観光客の交通手段として「徒歩」が令和元年から令和2年にかけて急増しており、50代以下の2人に1人が「徒歩」を交通手段に含めています。コロナに伴うソーシャルディスタンスの影響があるのではないかという推測もできますが、バスが頼れないからというような消極的な理由としてではなく、積極的に徒歩で巡りたいという観光客のニーズがさらに期待できるのではないかということです。ただし交通手段として「自家用車」も増えている点が懸念されます。この「森」にも今後、車が受入可能容量を超えて進入してくる状態になることも考えられます。
この調査では、多数の不満意見が交通機関に関して寄せられており、もっぱらバスに関する不満のほか、SuicaなどのICカード系に関する意見もあるようです。アンケートの選択肢から選んで答えるだけならともかく、自由記述の欄でわざわざ意見を書いているというのは、本来看過できない深刻さを示しているとみるべきですが、公共交通をめぐる問題は大きすぎるので割愛します。ここでは、金沢観光にとって徒歩は重要な手段であり、この「森」にとっても徒歩による回遊性が重要であるという点を強調したいと思います。

 森について、観光的視点から注目すべき三点目は「創造性・精神性」です。セッション1で佐々木雅幸先生が鈴木大拙館等に対する外国人旅行者の視点を提起しておられたとおり、外国人旅行者向けのガイドブックでは、鈴木大拙館について「素晴らしい思索空間だ。この空間は、穏やかな黙想の時間を過ごせる素晴らしい場所である」と、精神性に着目して高く評価するとともに、金沢21世紀美術館についても「日本海側で見逃してはいけない場所」と絶賛しています。
 別の「Lonely Planet Japan」という世界で最も売れているガイドブックでも、金沢のスポットを多々紹介していますが、見どころとして挙げている施設の多くが「森」の周辺に集積しており、とりわけ見逃せない場所として鈴木大拙館が挙げられています。世界中で注目されてきた「禅」に加えて、ハーバード大やスタンフォード大など世界有数の大学の研究者が「マインドフルネス」を提唱しており、例えば短時間の瞑想を通じてビジネスの新しいアイデアが生まれる、生産性が上がるといった経営上のメリットを指摘しています。経済や経営の中心を担う人達からの注目度が高いということです。
 鈴木大拙の著書でも東洋と西洋の出会いや融合について創造性などさまざまな視点から書かれていますが、鈴木大拙館に限らず「森」のあちこちで、東洋的でもあり、西洋的でもある空間が見受けられます。ステンドグラスで有名な尾山神社も訪日外国人旅行者でいつもにぎわっています。個人的にお勧めなのは兼六園の花見橋です。橋の上から一方を眺めると東洋的な風景が広がり、もう一方には西洋的な風景が広がっているといわれています。
「森」の奥における鈴木大拙館をコアとした精神性、創造性のポテンシャルを発揮して価値創造を進めることは、「森」に対する国際的な再評価につながっていくのではないでしょうか。

「森」の魅力の三大要素について述べてきましたが、観光用にPRされている「加賀百万石回遊ルート」のマップは、「森」の施設配置がビジュアル的に分かりやすいものになっています。このマップは、上下が南北に対応しておらず直感的に理解しづらいのですが、新しく南町にできた観光案内所を起点として動線を考えるには非常に分かりやすいものになっており、これはこれで面白い見方になります。このマップを見ると、「森」の玄関となるエリアに広坂合同庁舎があり、「森」の奥のエリアにNTTのビルがあります。これらの建物については、先ほども馬場先先生がかなりおっしゃってくださっていたので、同じことを申し上げる形になって大変恐縮なのですが、改めて観光の視点から「森」を資源の宝庫として見たときに、「玄関」と「奥」の両方にちょっと気になる施設があります。国土地理院の空中写真を見ても、いずれの建物も大きく目立つ形で存在しているという現実がございます。

 広坂合同庁舎は、観光の経済的視点から見れば、ここにあることによって地域に相当の逸失利益が既に生じているのではないかということを申し上げたいと思います。別の場所に行政機能が集積しており、「集積の利益」は文化施設だけでなく行政機能についても発揮できていないのではないかということで、移転していただくことが、多くの関係者にとってある意味ハッピーなことなのではないかと思います。

 続いて、NTTの出羽町ビルです。私がわざわざスライド上に施設名称を書くまでもなく、名前が分かる大きな看板が掲げられ、カラフルな「のぼり」も掲げられていたりします。これを歴史博物館の側から見ると、近づくにつれ、存在感ある建物としてクローズアップされて見えてきます。一歩裏に入ると大乗寺坂という大変趣深い、鈴木大拙館につながる坂があります。坂の石段も、蹴上部分は薄く、踏みしろが大きく、またスロープもあってアクセスにも配慮されています。途中には見晴らし台なども設けられ、ベンチもあり、坂道に疲れた方も一息つけるようになっています。この大乗寺坂には、こちらが鈴木大拙館でこちらが工芸館であるといったことが分かりやすく示された風情のある標示もあります。
 しかしながら、この坂から上を見上げると、やはりNTTビルが迫っています。特に観光客が多い週末には、真っ暗なビルがそこにそびえております。夜間も同様です。週末や夜間にオフィス系の建物が暗いのは、残業がないという意味ではいいことではあるのですが、ここを通るときに何らかの心理的なプレッシャー、ともすれば恐怖とすら言えるような感覚を覚える観光客もいるのではないかと思います。
 すみません、早くせよというプレッシャーを先ほどからかけられておりますので、言葉を選ぶ余裕がなく、ちょっときつい言い方で申し訳ございません。我流の表現が混じると「おまえが言っているだけだろう」と言われかねないのですが、クリエイティブツーリズムの世界的権威であるグレッグ・リチャーズがまとめた本の中で、「文化ゾーンが発展するための4つの要素」というものが挙げられています。時間の都合がありますので一つ一つご説明はいたしませんが、先ほどから申し上げている二つの施設に関しては、この発展に貢献する要素はない。これも大変単刀直入な言い方で申し訳ないのですが、やはり「集積の利益」ということで見れば、ここにある必要がない、日本を支える精神的な支柱と言ってもよい禅を世界に紹介している鈴木大拙館と「森」の奥をつなぐ「回遊性」(大乗寺坂を含め)や、森の「奥」の創造的発展を残念ながら妨げている施設であるということで、これも移転していただくことが必要なのではないかという結論を申し上げざるを得ません。
 「森」に文化資源が集積する、歩ける空間が拡大する、回遊性が向上するといったことによって、さらに観光客に「より深く金沢を知りたい、知れば知るほど奥深いぞ、このまち。もっと長居しよう」と思ってもらえるなら、金沢にふさわしいリピーターもさらに増えます。「森」を中心とする文化観光の環境がさらに整えば、冬に限らず施設を回ってみたいというニーズも出てきて、季節性の平準化への貢献が期待できます。さらに禅やマインドフルネス、精神性、創造性に直結する創造人材を中心とする新たな観光需要をつくり出すことによって、今まで以上にさらに金沢にふさわしい方々を国内、海外から呼び込んでいくことができるのではないかと考えます。「森」の健全な発展が、金沢にふさわしい観光形態をもたらし、地域社会全体のメリットになるということです。

 最後に、「森」のさらなる発展に関連して副次的な課題を2点申し上げます。モビリティ(移動)に関してMaaSという言葉が流行しているように、移動アクセスの利便性を図るためのアプリやカード端末などがあれば、施設・交通をシームレスに利用できるばかりでなく、コロナ禍では接触型決済を避ける傾向が出ているので非接触型決済としても活用できるほか、閑散期に安く、繁忙期に高くするといったような価格づけを通じて観光客の行動変容を促し、観光の季節性の平準化を図る機能も期待できます。
 もう一つは教育観光、家族旅行の促進です。この問題は私の研究領域でもありますが、家族旅行は他の旅行に先行して増えたり減ったりします。つまり今後、他の旅行形態に先行して一気に家族旅行が盛り上がるということも考えられます。子どもやファミリー層にも金沢の真価を学んでもらう必要があります。文科省から研究予算を得て、コロナ流行の直前、3000世帯以上の家族を対象にどんな観光がしたいかといったことを調査したことがありますが、特に首都圏において「将来、美術館や博物館などの文化施設に行きたい」と答えた家族が多い結果となりました。今は微妙な時期ですが、金沢の観光政策上、関東からの旅行者はもともとターゲット層の一つです。そういったファミリーたちが金沢の「森」の奥深さを知り、ここをどんどん極めようと長く滞在し、リピーターとなり、金沢のアーティストとの交流も生まれる、そのような展開を楽しみにしております。ご清聴ありがとうございました。

(鶴山) ありがとうございました。ソフトな語り口で、激しい内容のお話をお聞かせいただきまして、ありがとうございました。大変参考になりました。
 それでは、砂塚さん、いかがでございますか。

(砂塚) 外からのお客様にたくさん来ていただくための戦略や戦術というのは十分練り上げて対応していかなければいけないと思います。ただ、その一方では、観光客誘致とか、観光客をお招きするとか、そういう言葉に対しては一定の距離を置くという視点も必要ではないかと考えます。「来てください、来てください」ということを声高に言われると、ちょっと興ざめしてしまうということもあると思います。人気の店でよくイメージするのは、頑固おやじがいて、「黙って食べろ」みたいな、それで食べてみると、ものすごくおいしい、ぶっきらぼうなんだけれど、また来たくなる、そういうのも人間の心理だと思います。あえて観光客誘致という言葉からは距離を置く、その一方で、金沢の文化をどんどん深めていく、これが軸足なのだということが、結局、最終的には外からのお客様が来たくなるまちづくりにつながっていくということもあるのではと思います。
 回遊性をどう高めていくか、情報発信をどうするのか、それについても、情報発信は、今あえて距離を置いてみたらどうかという視点もあってもいいのではないかと。情報発信をあえてしないのだけれども、それが情報発信というか、外からのお客さまが来たくなるまちづくりにもつながっていくという、何か逆説的なことを言っていますが、そういうこともあるのではないかと思います。
 例えば兼六園文化の森周辺でどうやって人を回遊させるかということですが、施設や場所には、よく見ると、それぞれ物語があります。例えば石川四高記念文化交流館の裏手の旧四高の校舎跡には、作家の井上靖さんが旧制四高の学生だったころに柔道場があって、そこで汗を流したということが『北の海』という作品の中にも書かれています。そういう場所だったのだとか、あるいは、スタジオジブリの宮崎駿さんが「僕が一番影響を受けたのは、作家の堀田善衛さんです」とおっしゃっていますが、その堀田善衛さんが旧制二中の学生だったころに下宿していたのが、今の北陸学院がある一帯の飛梅町界隈でした。そういった物語を個々につなげていくことで、「この施設の前にはこういうものがあって、こうだったんだな」ということがまた、人を回遊させる動機づけになっていくのではないかと思います。
 例えば広坂のカトリック教会の近く、正確に言うと、金沢21世紀美術館のあの辺りだそうですが、戦国大名の高山右近の住まいがあったということを聞いています。5年前にローマ教皇庁が高山右近を福者に認定し、イタリアからも枢機卿が金沢にお見えになりましたが、これがよく聞くと、カトリックの信者さんには大変な発信力があるらしいです。高山右近の住まいがあったということで、うまい作り方をしていくと、世界中から注目される場所として、改めて認識されるということもあると。そんなことで、物語で回遊性を高めていくということもあってもいいのではないかと思います。ちょっと断片的ですけれど。

(鶴山) ありがとうございました。それでは、水野先生、皆さんのお話をお聞きになられて、総括的なことも含めたお話をしていただけませんでしょうか。

(水野) 私が今日聞いていて一番思ったのは、「歴史」という言葉が何回も出てきたということです。歴史をもう少し大事にしてくれという話です。先ほどちょっと言いましたように、ここに一向宗の金沢御堂ができてから、もう500年近くたちます。すなわち、いろいろな歴史がここに刻み込まれています。その歴史をどうやって語ったらいいかということです。この間、この石垣をずっと回ってみたのですが、その石垣も、初期のころは技術が大変稚拙で、石切り場で削ったものをそのまま一生懸命積んでいくという形でやるのですが、だんだん慣れてくると、規格品を作っていって、向こうで規格品にして持ってくる、そして積んでいくようになりました。そのうち、だんだんお城の石垣が防衛のための石垣ではなく、遊びのための石垣になってきました。そうすると玉泉院丸庭園のように短冊の石垣などいろいろな遊びの石垣ができてきて、戸室石の赤と白を上手に使い分けたりする。「遊んでいるな」というのが出てくるのですね。それは時代を全く反映しているのです。
 そういったことで見ると、例えば今の歴史博物館ができたのは明治の末から大正のころなのですね。なぜあのころ慌てて3棟も続けて兵器庫ができたのかなと思うと、日清・日露があったのではないかということが背景にあります。
 それから兼六園周辺文化ゾーンのころには美大が入っていたので、美大はなぜあそこに入ったのかとか、そういえば戦後の新制大学としてつくられたなとか、あの歴博そのものもずっと時代を追っていくと、その時々の歴史が出てきます。先ほど砂塚さんから、それを起点に歴史を語るということがありました。だから、建築を起点に歴史を語ったり、石垣を起点に歴史を語ったり、お菓子を起点に歴史を語ったり、工芸を起点に歴史を語ったりする。そういういろいろな形で歴史を入れていくというのは、富裕層というのか、欧米人の旅の楽しみ方の非常に重要な部分だろうと思います。それが1点です。
 もう1点は、何人かから出たのですが、ここを公園として一体化したらどうだと。お城がある、兼六園がある、本多の森がある、広坂があるという、部分部分に分かれるのではなくて、これを一体的な庭園として整備したら、都心の緑地として非常に有効ではないかということです。先ほど言いましたように、ここは500年近い歴史を含んでいますので、さらに次の500年まで含めるとすると、1000年の森ができるかもしれない、1000年の庭園ができるかもしれないと思います。
 金沢の場合は、まちづくりの理念として、保存と開発、伝統と創造という対立概念、二律背反の概念を、何とかして知恵やデザイン力、みんなの力を合わせてつくることを通じて共存させてきたということから言うと、そのようなものができないかなというふうに考えた場合に、兼六園の兼「六」というのは「宏大(こうだい)・幽邃(ゆうすい)・人力(じんりょく)・蒼古(そうこ)・水泉(すいせん)・眺望(ちょうぼう)」のことで、例えば「宏大と幽邃」は、宏大は広いこと、幽邃は水の流れです。水の流れは大体谷底にあるから、宏大ではありません。ところが兼六園は稜線上に水を流しているから、宏大な景色と幽邃の狭い空間が共存しています。「人力と蒼古」は、要するに、人工物と自然の古い風景がやはり共存するのだということです。「水泉と眺望」というのもそうです。だから、兼六園の六つは、三つずつ対立したものが合わさったもののデザインでできているということを含めて、対立概念のようなものを乗り越えてつくっていく、その力が金沢市民、金沢全体にあれば、先ほど皆さんがおっしゃったように、観光の力にもなるし、市民にとっての力にもなるし、文化の力にもなるのではないかと思います。お城がシンボルゾーンだというより、実際は、このまち全体がそういうゾーンなのだということが言えるかと思います。この中にいっぱい詰まっているのです。
 個別的には、先ほどから合同庁舎とNTTが出ていますが、これは実は昭和56年の報告書を作った時点でも出ていて、NTTには会が申し入れもしているのです。いろいろ議論もしてきている。ただ、なかなかそのとおりには進まなかったということがあります。まちづくりというのは、5年、10年でできる話ではないので、ずっと言い続けることが絶対に必要だと思っています。ですから、ロングレンジに考えていこうではないかということです。
 いもり堀のところに道がありますが、この道も要らないのではないかという話が随分出ています。あれがないと、しいのき迎賓館からずっと石垣まで空間が通じるではないかとか。それから、この辺の緑のつくり方、本多の森の緑のつくり方は、庭園や緑化の専門家から見ると、大した木もないし、大した植栽の仕方もしていないし、剪定方法も普通だと。もっと兼六園にふさわしいものであるべきではないかということを言われています。ですから、そういう意味で、われわれの中でもレベルを上げていく、そういう営みが必要なのではないかと思います。
 あと細かくたくさん、歩けるまちとかいろいろ出ましたが、その辺も、皆さんからまたさらに付け加えていただいて、われわれの宿題としていきたいと思います。

(鶴山) ありがとうございました。そろそろお時間も来ましたので、大変恐縮でございますが、私の方で本日のセッションで出た発言の要旨といいますか趣旨を少しまとめてみたいと思います。
 水野先生のお話と重なりますが、やはり歴史性の認識、あるいは語りというものが大切であるということ。ある意味、歴史に敬意を表するといいますか、そういった観点が大事なのかなということが、まず一番だと思います。
 また兼六園、出羽町周辺ですけれども、広坂地区、本多の森というものを一体として認識し議論することが今まであまりなかったということ。そして、これがこれからも大切であるということかと思います。
 そして文化の森というものを広く認知してもらうための、ある意味、方法といった観点から、冒頭出ました、兼六園周辺文化の森を、上野文化の杜、京都岡崎の森と並んで、日本三大文化の森として位置付けていくということ。
 それから、それらの森の捉え方の中で、MaaSなどの新しい仕掛けを取り入れた、あるいは観光交通との連携を考慮していくべきだろうということがあります。ただ、観光を前面に打ち出して、この区域にいたずらに多くの人に来ていただく、呼び込むということは、文化の森として、あまりふさわしくないのではないかということかと思っています。
 先ほどからよく具体的な名前が出ているNTT西日本の出羽町ビル、広坂の合同庁舎、兼六園周辺の多少の老朽化した建物・施設、そういったものの、しつらえということの中で、再整備あるいは再配置ということをこれからも継続的に意識・議論していくことが大変大事であるということが、今回のテーマの一番最後に出た具体な話かと思っております。
 そういったことを踏まえて、「兼六園周辺文化の森」の区域というものを、われわれは今一度明確に認識して、取り組むべきこと、あるいは具体的なイメージを描きながら、皆さんと共に議論、あるいは活動していきたいということが大切であるというふうに私は感じました。
 つたない進行でございましたけれども、今日は、ちょっと驚きの出るような話が結構ありましたので、明日また全体会議で、これらのことも若干整理しながら、より実のあるセッション、あるいは提言に結び付けていきたいと思っております。
 皆さまには長時間ご清聴いただきまして、ありがとうございました。以上をもってセッション2を終わります。ありがとうございました。