第11回金沢創造都市会議

金沢創造都市会議2021 >セッションB

セッションB「金沢の都心軸を考える〜経済軸から文化軸へ」












座   長:浜崎 英明  (金沢経済同友会代表幹事)
パネリスト:大内  浩 氏(芝浦工業大学名誉教授)
      竹内 申一 氏(金沢工業大学教授)
      武部  勝 氏(エステック不動産投資顧問(株)代表取締役社長)
進   行:米沢  寛  (金沢創造都市会議開催委員会実行副委員長)

(米沢) 最後のセッションです。よろしくお願いします。今回、われわれが言っている都心軸というのは、金沢の背骨に当たる、金沢駅から武蔵ヶ辻、南町、香林坊、片町と、その通り、メインストリートを指しているわけですが、現在のメインストリートの現状を少し整理します。金沢駅前は、正面の金沢都ホテル跡地が白い塀に囲まれたままですし、武蔵のエムザは、名古屋鉄道からディスカウントストアのヒーローに親会社が替わりました。そして南町では、北陸銀行の前の明治安田生命の建物が壊されて、現在空地で、その先の将来構想はまだ聞こえていません。そして少し行くと、尾山神社前の北陸中日新聞社の本社ビル跡地も、路面の大変広大な駐車場ですが、2年間そのままになっています。
 その先に進んで、日銀の金沢支店。これは駅西に移転することが決まっています。それから先の片町商店街は、建物の老朽化が大変進んでいて、野村不動産が参加し再開発という話を聞いていますが、その後の展開については、ここ1年半か2年ぐらい全然話を聞いていないので、果たしてどうなるかなと思っております。
 これまで私ども金沢経済同友会は、都心軸については何度か話をさせていただいていますが、今までは、金沢弁で言うと、「よそんちの地面をちゃべちゃべ言うのは気が引ける」といいますか、なかなか遠慮がありまして、深くは触りませんでした。が、ここへきて、このメインストリートに跡地という空地が所々見られるようになると、非常に危機感を持っておりまして、地元で商売をさせていただく経済人として、このまま全然発言しないというのは、私自身もそうですけれども、大変ふがいないといいますか、まちに対して失礼だという気持ちがあり、今回改めて、この都心軸をテーマにさせていただきました。特にこのセッションでは、二つの場所に絞ってパネリストの先生から提言をしていただきたいと思っています。
 まずは、金沢駅前の都ホテルの跡地です。駅というのは、そのまちの顔です。もてなしドーム、鼓門、世界で最も美しい駅にも選ばれている金沢駅ですが、その向かい側の正面で、残念ながら、北陸新幹線開通後、一度もあの白い壁が取られたこともない。持ち主の近鉄グループホールディングスは、売却の予定とは聞いていますし、幾つか購入希望の方が手を挙げたとも聞いております。また、その中には、外資系のファンドも入っているという話も聞いています。このままいくと、われわれの手の届かないような地面になり、金沢にふさわしくないような建物ができる可能性もないとはいえません。そういう意味で、その場所についても、もしも買われる方が物を進めやすいように一歩前進になる提言をさせていただけたらいいなと思っています。
 もう一つは、香林坊の日銀金沢支店跡地です。駅西では、既に実地設計が終わっていて業者選定に入っています。これから建築が始まると、間違いなく3年後には、あの地面は空いてしまいます。私は今のところ、金沢市が購入する意志だということを若干聞いておりますが、これはまだ議会等に諮ったわけでもないので、一切何も決まっておりませんが、間違いなく3年後には、あの地面は空きます。今から使い道をきちっと議論させていただいて、3年後に移転したすぐに次の計画に取りかかるようにしなければいけない。この二つとも、本当にこのまちにとっては喫緊の課題だということで、この二つの場所に絞って提言をさせていただきたいと思います。
 それでは、大内先生からお願いします。

(大内) 大内でございます。このセッションで取り上げられるのは、駅前から武蔵、南町、香林坊、片町などのまさに中心軸でありますが、私たちはここを経済軸から文化軸に転換をしていくということを提言し、そのためにさまざまなことをしようということが今日のテーマです。
 40年前、1974年に総合研究開発機構(NIRA)という半官半民の、国が主導でつくったシンクタンクに私は雇われていて、そこで21世紀への課題プロジェクトというのを足掛け3年間、3億円の予算を使ってやっていたのです。



 その結果というのが、一つは、外交的には日本あるいは世界は環太平洋の時代が来るということです。1970年代ですので、まだ世界経済全体は、アメリカとヨーロッパが中心で動いていました。そのときに私たちは、韓国もそうだし、台湾、タイ、マレーシア、インドネシアも相当有望で、そろそろアジアが元気を付けてきて、そして、中国がここまで発展するとは、実はまだ全然考えておりません。経済特区をようやくスタートさせたぐらいの時代です。でも、環太平洋が世界の経済の中心になる時代が来る。これは外務大臣も務められた大来佐武郎さんを中心にさんざん議論したテーマです。これは今日のテーマではないので、これだけにします。
 もう一つのテーマがすごく重要なのですが、当時日本は、経済大国として周りからちやほやされたり、褒められたり、私も親しかったエズラ・ヴォーゲルさんが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という本を書いて、ハーマン・カーンという未来学者が「そのうち日本は世界一の経済大国になる」と言って持ち上げた、そんな時代でした。北陸はかつては繊維産業が中心だった地域ですが、日本の繊維産業が世界の繊維産業を駆逐してしまう。ヨーロッパの繊維産業、あるいはアメリカの繊維産業も日本が取って代わったり、さらには造船、鉄、そして、そのうち自動車。アメリカは一番自動車を恐れました。アメリカの中心だと思っていた自動車産業が、もしかするとトヨタ、日産、ホンダにやられてしまうかもしれないということで危機感を持ち、ジャパンバッシングがものすごい勢いで起きて、「日本は不正な行為を働いて経済大国になったんだ」ということをさんざん言われました。今の中国に対するアメリカのバッシングよりも、場合によってはひどいようなバッシングさえされました。
 そういう日本を一体どういう形で将来導いていったらいいかというときに僕たちがつくったのは、「文化立国」という将来構想なのです。これは梅棹忠夫先生という、国立民族学博物館を立ち上げられた著名な人類学者で、私がいたNIRAの理事でもあられた先生ですが、さんざん夜っぴて梅棹先生と私は議論しました。
 梅棹先生はいろいろな言葉を残されているので、二つここでご紹介します。文化というのは、壮大なる遊びなのだと。本当に壮大なる遊びだと。実は経済というものは消費的な行為と投資的行為の二つしかないのですね。お金の動きというのは消費、私たちが物を買ったり、食べたり飲んだりするために買ったりするということと、例えば銀行に預けて、その銀行に預けたお金が投資に回っていく。そのどちらかしかないのですが、文化というのは消費行為だと。ただし、時々文化というのが教育と一緒にされてしまう。これは間違いだというのは、梅棹先生はよく言われていました。教育といったら投資だよ。要するに、国家、あるいは、みんなで協力して若い人たちに投資をして育てて、それが将来立派な人材として成長しなければいけない。そういう意味では投資行為だと。でも文化は壮大なる遊びですから、それでどれほどの経済効果があるかとか、実はそれで極端な話どういうふうになるかという因果関係は、ほとんど分からないのですね。でも、文化に投資するということに意味があるのだということを、ここでまとめました。
 それをまとめて、私は1978年に終わって、好きなことをやっていいよと言われたので、では海外へ行ってきますと言って、ボストンのハーバード大学で2年間研究員をさせていただきました。

 そして1979年に帰ってきて、金沢のJC(青年会議所)の皆さんから、私がまとめた21世紀の課題のプロジェクトについて説明を受けたいということでした。私は1時間半ぐらい説明をして帰ろうかなと思ったら、当時JCの理事長はヤマカ水産の紙谷穣さんだったのですが、さすがに魚屋さんで活きが良くて、「大内さん、これで帰られちゃ困る。金沢をどうしてくれるんだ。あなたは金沢について、どう思っているんだということを言ってもらわないと困る。それを聞けないうちは帰さない」と言われて、「はいはい」と言って、私は苦し紛れに「金沢はもしかするとボストンみたいなまちになる可能性があるよ」という話をしました。面白いことに、ボストンの歴史というのも、ほぼ400年なのです。ハーバード大学が設立されたのは1636年で、アメリカの植民地時代です。そしてボストンも、元々繊維産業がありましたし、工芸品などもありました。その後、大学、金融業、今は観光業でも潤っているところですし、皆さんよくご存じの例えばボストンシンフォニーや、ボストン美術館、またMIT等々、大体35〜36の大学があります。私はそういうまちのことをイメージして「ちょっと待ってください。金沢は、もしかするとボストンになれるかもしれない」と言ったのです。
 当時、私は通商産業省がやっていたテクノポリスの仕事もしていて、新潟県長岡のテクノポリス、鹿児島の国分隼人のテクノポリスなどの仕事もお手伝いしていたのですが、どうも金沢にテクノポリスはふさわしくないなと。富山が立候補したので、金沢も立候補しようかと悩んでいたのですが、そのときに「やめなさい」とはっきりお話ししました。なぜかというと、当時のテクノポリス論というのは、集積回路の工場を誘致するということが中心だったので、集積回路の工場は大体200〜300人から400〜500人の人がいればできるので、多分、ある程度のところまで成熟したら、すぐどこかへ行ってしまうよと。案の定、どこかへ行って、韓国に行き、いろいろなところに行っています。今でも、もちろん、集積回路は素晴らしい仕事をしている日本の企業もあるのですが、そうではないでしょうということで、金沢のまちは「アートポリス構想」という名前にしました。ただし、アートとサイエンスということにちょっとこだわりました。
 アートは、先ほど梅棹先生の文化は壮大なる遊びだというお話をしましたが、実はサイエンスというのは、日本は科学技術という言い方があって、一つの言葉にしてしまうのですが、英語だとアート・アンド・サイエンスです。アートとサイエンスというのは、人間の行為、マインドとしては、サイエンス的な仕事をするというときと、テクノロジカルな仕事をするときとちょっと違う。テクノロジーというのは、速く走りたいとか、何かを満たすために、何かの必要を解決するために開発するのですね。ですから、人類の歴史とともにテクノロジーはあります。速く走ったり、重い物を持ち上げたり、いろいろなテクノロジーがあります。ただ、サイエンスの世界というのは、ある種のフィクションに近い世界です。近代科学がヨーロッパでなぜ生まれたのかというのは面白いテーマでもありますが、どこか非常にフィクションに近い世界があって、ある意味で、アート的な行為とサイエンティストの頭というのはすごく似ていると思っています。金沢は、もちろん技術もありますけれども、先ほどのセッションでも、例えば禅の思想があったり、さまざまな哲学者、文学者もおられたということで、そういう素養もあります。もちろん、タカジアスターゼの発見や幾つかの薬の発見、開発も、この北陸で行われた歴史もあるわけで、私は、アートとサイエンスというものをうまく融合したということで、金沢はいけるはずだと、そこに皆さんこだわりなさいと。
 ただし、そこで申し上げたのは、「加賀藩は確かに素晴らしいことをやられた。でも、加賀藩がやったことのいわば歴史的な遺産に依存していただけでは、そのうち絶えてしまいますよ。文化というのは、常に新しいものに挑戦し続けて初めて継続できるものなのであって、必ず次の100年、あるいは次の400年を考えて金沢は挑戦しなければ駄目です」ということです。

 アート・アンド・サイエンスシティということにこだわって、青年会議所の皆さんと1982年に、2001年金沢アートポリス構想というのを「伝統からの創造」というテーマで出したことが、そもそも私と金沢の皆さんとのつながりで、そのとき米沢さん、福光さんもおられたのです。

 次に、文化政策の昔と現代について。加賀藩の文化政策について、皆さんの方がよくご存じだと思いますが、一般的に前田利家はじめ、利長、利常あたりから始まって、前田が百工比照や御細工所等をつくって、全国から当時一流の工芸師たちをここへお呼びして、それが前田の今の工芸の文化の礎をつくったということになります。前田は尾張の人ですけれども、なぜそういうことを前田がしたか。一般的な解釈は、もしかすると前田はそれで富を築いて、徳川幕府に対して相当な脅威になるということをカムフラージュをするために文化にこだわったのだという言い方ですが、私は、もうちょっと違う激しい解釈をしています。それ以前は先ほど一向宗の話もありましたし、戦国時代ですね。戦国武将たちにある意味で遊びを教えてしまったということだと思うのです。お能もそうでしょう。謡もそうですし、あるいは、お茶もそうかもしれません。良い意味で、力づくで戦国時代を生き残ってきた人たちのエネルギーを違う方向に、文化の方向に持っていったことによって、前田はこの地を治めた。そして文化振興で生きていく道を教えたという、そういう知恵だったというふうに思います。
 次に、アーティスト支援ですが、最初のセッションで、コロナ後のアーティストという話がありましたが、実は世界の中では、皆さんよくご存じのとおりいろいろなことがありました。先ほどペストの話も出ました。ヨーロッパは、ペストで暗黒時代に陥りましたが、もう少し手前でも、例えばスペイン風邪で、第1次世界大戦が終わって、その後、アメリカでは大不況になっています。大不況になって、その後、アーティストがみんな失業したのを誰が支援したかというと、ロックフェラー財団やフォード財団などでした。日本でも音楽家やいろいろなアーティストが演奏する場所がなくなったりしているので、そこも支援しなければいけないと思います。
 文化の民主化というのは、かつて貴族やお金持ちの文化だったものをどうやって一般のみんなの文化にするかということですが、特にフランスはミッテラン政権などが一生懸命やりました。文化というのは、高級なルーヴルにあるような文化だけではなく、アニメや漫画などはまさにそうですし、あるいはサーカスなどもそうです。そういうものも皆文化だというふうにして、文化の対象が分かったというイメージがあります。
 最後は「前衛アートは半世紀後に開く」。前衛アートというものが本当にみんなに受け入れられるまでにはどうしても時間がかかります。私は学生時代に桑原武夫先生の本で、エミール・デュルケームの説として、前衛アートが一般に受け入れられるためには大体50年かかるのだよということを読んだ記憶があります。

 懸案地区への提案です。まず駅前の都ホテルの跡地。これをホテル+アート関連機能、そして金沢21世紀美術館のアネックスみたいなものに転換できないか。この後、竹内先生がさらに具体的なことをおっしゃってくれると思います。

 2番目に、日本銀行の金沢支店が間もなく移転します。ここを金沢ブランド館、あるいは創造都市研究所、これは佐々木先生に考えていただかなければいけないのですが、それとコンベンション施設のようなものにしてみてはどうか。そして、エムザや片町の再開発については、都市計画手法で新しい手法をぜひ考えてほしいということで、幾つか事例を、ぱっぱっと画像をお見せしながらいきます。

 左上は、今現在の、元都ホテル跡地です。駅前のもてなしドームと鼓門を造るときにも、水野先生たちとも話した記憶がありますが、きちっとしたお屋敷であれば、まず門があって、玄関があって、応接間があって、それから客間、居間というふうに順序立てていて、お客さんを導き入れるという空間があるわけです。僕は、都ホテルの跡地というのは、いわば応接間、お客さまを応接間に迎え入れるような空間にしていきたいと思ったわけです。そのために、ホテルもちょっと必要だし、そして金沢21世紀美術館の分館的なものをどのようにディスプレイしていくかdは、長谷川館長にお任せすればいいのではないかと思っています。
 日銀跡地は、この正面部分は本当に、しっかりできている。ただし戦後のものです。昭和29年の建物です。中の写真はないのですが、非常に立派にできているし、天井高も高いのですが、そこをある意味で、金沢のブランド館として、伝統的なものもそうです。前衛的なものもそうですし、幸いなことに、この対面に世界的なブランドのお店があります。ある意味で、金沢がブランド館を造るには、ルイ・ヴィトンやグッチをちょっと慌てさせなければいけないわけです。そういう意味では、目の前に、対面にあるというのは、非常にいいなと思います。右には三菱UFJ銀行があるのですが、そこも含めると、隣接する用地を利用して、多用途のコンベンション施設ができるのではないかと。近接するところに、赤羽ホールや市文化ホールがあるので、同時利用をすれば、かなりの規模の学会やコンベンションができるのではないかと思っています。

 これは上がGINZA SIXなのですが、GINZA SIXは、後でまた話題が武部先生からあるかもしれません。GINZA SIXは、私が知っている範囲で非常に面白い試みをしました。実は最初は高層タワーの予定だったのです。容積目いっぱい使って、旧松坂屋のデパート跡地にかなり高いタワーを建てる予定だったのですが、その案は却下されました。銀座というのは、東京の中で渋谷や新宿、赤坂などとは違って、狭い店舗が多いのですが、底地から建物からみんな自前で営業されている方が最も多い、東京の中でも非常にユニークなところです。そしてもちろん、ご存じのとおり、江戸時代からの町割りを引き継いでいますし、裏の路地もたくさんあります。並木通りやみゆき通りだけでなくて、本当に人が一人しか通れないような道もあります。松坂屋の旧跡地だけでは、開発を担当した森ビルとしては、とても採算の上げられるような用地開発はできないということで、困ったけれども、ここからが知恵の絞りどころだったのです。
 この右側の上の方ですが、実は東京都の都道の上にもビルを建ててしまったのです。そして、都道の抜けているところに、タクシーが横付けできるようにしました。そして、観光バスもあそこに入ります。そのような、日本の都市計画では、ほぼ初めてに近いようなことをしたのです。海外ではこのような事例は結構あります。日本では実は前例が一つだけあって、それが左下の三越です。銀座四丁目の三越も店舗が狭くて、その裏の土地を買ったのだけれど、この真ん中、左の一番下にありますけれども、ここも道路用地です。下に車があるのは都道です。都市計画的に公共の道路の上にビルを建てるというのは、今までの例では日本ではほとんどできないということをやりました。
 こういうことも含めて、例えば片町の開発なども考えたいということです。

 私は、片町きららは、大変苦労されたと思います。前面の公開空地は工夫されていますが、残念ながら、背後の裏通りとの連携がないのですね。プレーゴは、ヨーロッパのイタリアの都市を参考にしたもので、私はもっと評価されるべきだと思っています。
 エムザは、ちょっといろいろあるようですが、近江町がキッチンだとすると、ダイニングスペースのような位置付けで、裏通りとの連携も取りながら、新しい姿に再開発するということをされたらいいと思います。

(米沢) 竹内先生、お願いします。竹内先生には、前のラウンドテーブルの真ん中に模型を造ってきていただいています。どうぞ。

(竹内) 金沢工業大学の竹内です。よろしくお願いします。今回発表させていただくに当たり、僕だけでやるよりは、学生と一緒にやった方が楽しかろうということもありまして、今回は、今日そこに集まっていますが、修士2年生の学生たちと今回与えられた課題である「金沢の都心軸を考える」ということを話し合っていろいろまとめてきました。円卓の中央に置いた模型も、二つの跡地に対する提案として、今回われわれの方で提案させていただくものです。




 都心軸の形成というのは戦後に始まったのだと思いますが、大きなまちの再編でありました。これは香林坊片町周辺です。今日、水野先生からも話がありましたが、防火帯建築を造ることで、不燃化、あるいは交通の整理ということが行われました。
 これは1953年、戦後間もないころと1973年の航空写真です。防火帯建築がほぼ完成したころです。


 これは金沢駅から武蔵ヶ辻までです。1962年の様子で、かなり時間がかかって、確か1996年ごろだと思いますが、都心軸が単純化されて結ばれました。これは軸の単純化というか効率化だったと思います。






 これは昭和35年の香林坊の様子です。先ほど話がありました防火帯建築と道路の拡張工事が始まったころだと思います。奥の方には、既にできている防火帯建築があります。一方で、この辺りには元々あった建物群がまだ残っています。道路の幅も、元々の幅ですね。車はまだ非常に少なくて、車と人は分け隔てられていないというか、混ざり合っている。良い言い方をすれば、共存している。お互いがお互いの安全を守りながら共存しているというような状態です。

 それが昭和40年になりますと、防火帯建築、アーケード、道路拡幅工事がどんどん完成してきます。アーケードが完成して、雨や雪のときでも歩けるようになったのはいいのですが、悪い見方をすると、かなりの部分を車に占められてしまって、人は端っこに追いやられてしまった、そんなふうにも見て取れるのではないかと思います。



 これは先日同じような場所から撮ってきました。本当に人が写らずに車ばかり写ります。これは今コロナ禍で、観光客の方がいらっしゃらないからかもしれませんが、そういったものが現状です。


 戦後から20世紀末までにつくられてきた都心軸は、やはり経済、車ということを大きな主軸にしてつくられてきたのではないかと思うのですが、今後の都心軸の在り方を考えるときには、本当にそれでいいのだろうかというのが、今回の疑問の提示です。今後を考えると、都心軸は変容していくべきではないか。経済と車から、今回文化軸という言い方をしていますけれども、これからは文化、それから人のための軸に転換していくべきではないかというのが、今日の大きな話です。


 では、まず軸自体をどのように考えていけばいいか。今は動物の背骨のような単一の背骨型だと思うのですが、それをもう少しネットワーク化された、木の幹と枝と葉っぱのようなネットワークの樹状型へ変えていったらどうだろうと考えました。
 これは金沢のまちをずっと縦断する都心軸で、駅からずっと犀川大橋に向けて、さまざまな地区を今結び付けています。全てをこの軸線上に集中させることで、これまでの都心軸は形成されてきたと思うのですが、今回学生たちに、まちをあらためて見てきてもらいました。実際都心軸の周辺にも魅力的なところ、あるいは筋があるはずだということで、これは学生たちが自ら歩いてピックアップしてくれた点と筋です。

 これを見ても分かるように、実際の都心軸の周りにも非常に魅力的なものはかなり多く点在しています。既に、せせらぎ通りをはじめとして、通りも、かなり魅力的な部分が多いのだということがよく分かりました。
 そうであれば、今の背骨のような軸だけではなくて、それをつなぎ合わせていって、樹状の道のネットワークをつくるといいのではないか。


 それは何のためにやるかというと、都市の奥行き、それから今日、何度もお話に出てきていますが、回遊性を生み出す。それから、歩いて楽しめるまちの創出。今日、岡先生が疲れた方がいいというお話をされていましたが、どんどん歩いてもらって疲れてもらう。それから、これからまちなかでいかに人が暮らせるようにするかというのは大きな問題だと思いますが、歩いて暮らすことの魅力を創出していくべきではないかと思います。


 これは藩政期の江戸の道の様子です。ヨーロッパでは広場が人の集まるコミュニティ空間だったと思いますが、日本はそういったものは元々なくて、道自体がコミュニティ空間として機能していたわけです。それが現代では車に占拠されてしまいました。
 フィレンツェをはじめとしたイタリアの都市、ヨーロッパの都市は、車の制限をして、まちなかを人の歩行空間に変えてきていると思うのですが、金沢も、これからのモビリティの変化や社会の縮小や人口の減少を考えると、まちなかは車をできるだけ追い出すというか、外に出していって、歩いて暮らせる、歩くことが楽しい空間にして、道を変えていくべきではないかと思います。


 これはせせらぎ通りの歩道を道全体に延ばしたらどんな風景になるだろうと思って、学生と一緒に描いた絵です。やはり車がいないだけですごく安全な感じがしますし、道そのものが活動の場所になっていくなということが分かります。





 次に、低層多孔質都市について。「つくる」開発から「つかう」持続へ。それから、まちを分断する建築から、まちをつなぐ建築へという提案です。

 身の丈再開発と呼ばれて、かなり全国からも評価された近江町いちば館は、法律で認められる容積を全部使い切らずに、半分ぐらいだったと思います。要するに、必要なものだけを造ろうと。経済を優先させずに使えるものだけ、身の丈に合ったものをつくろうというものだったと思います。これはやはり非常に先見的な事例だと思いますし、これから経済含めてシュリンクしていく中で、とにかく床を造っていく、開発という行為ではなくて、もっと使える空間をつくっていくべきではないかと思います。

 エムザは、僕は結構好きで、低い建物の上に豊かな緑が乗っかっている。やはり地面から近いところというのは、アクセシビリティも高いですし、景観も含めて、都市と非常に親和性のある感じがつくられると思うのです。今後、こういう都市というのもあり得るのではないでしょうか。



 先ほどプレーゴの話がありましたが、僕はデザインを専門としているので、このデザインが好きかと言われたら、あまり好きではないですが、ただ、奥に向かってまちをつないでいくような、ゲート、穴としての機能としては非常にユニークな建物です。実際は、抜けた先が今駐車場になってしまっていて、非常に残念な結果にはなっていますが、まちに建つ建築としては、非常に有効な手段なのではないかと思います。

 これは現在の防火帯建築を描いたのですが、今これによって、都市に表と裏が非常に強く生まれているということが問題ではないかと思います。要するに、この防火帯建築が非常に強い境界面として存在してしまっている。






  例えばそれを低層化して孔を開け、プレーゴのような非常に風通しのいいというか、自然も人も流れるような状態を促進させる。かつ、これからそんなにたくさん床も必要ではないでしょうから、商業に関しては下層部だけでいいのではないか。それから、これから人をどんどんまちに入れていくという意味でいうと、上層部に住居を造ったりしながら、もしかしたら代官山の開発というのはこれに近いのかもしれませんが、そういったコンプレックスの形で、人がここに住んでいるということ。それから、まちを分断するのではなくて、まちをつなげていくような背骨の在り方、軸の在り方がいいのではないかと考えました。

 最後に、今日のメインテーマでもあるかもしれませんが、文化軸を強化する二つの拠点について話したいと思います。具体的に言うと、都ホテル跡地と日銀跡地ですね。この二つの跡地問題をどうするのだということです。







 まず都ホテルの跡地の活用ですが、ここでは観光と文化をつなぐアートホテルの提案ということで、金沢21世紀美術館分館とハイクラスなホテルの合築をしたらどうか。今日、長谷川館長から三つの場所のご提案がありまして、一番初めに駅前が出てきました。
 あそこを開発するにあたって、単純に民間に全部渡してしまっていいのかということもあると思うのです。そのときに、金沢21世紀美術館の分館をそこに組み込むことで、行政と民間の協働によって、そこに空間をつくる。それは結果的に、多くの人がそこを使えるということにもなると思うのです。宿泊客だけではなくて、多くの人に開かれた場所になる。
 それから美術館に泊まるというのは、なかなかないと思うのですが、金沢の駅前のそこにしかないという特別な空間、場所と体験をつくる。できれば、経済を優先して、とにかく高く造るのではなく、サービスの質や空間の質を考えながら、あえて低層にしたらどうだろうと今回持ってきました。

 駅を降りて、金沢に来る人たちを迎えるような場所になるので、その来訪者を迎える、鼓門をくぐった後の第二のゲートと考えてみてはどうだろうというイメージです。






 これは学生たちと作ったイメージ図なのですが、低層のボリュームに先ほどの有孔の、穴を開けた建築ではないですけれど、穴をぼこぼこ開けていって、それを美術館としています。先ほど長谷川館長から、大体5000〜6000m2という話がありましたが、多分、この下2層ぐらいをきっちり使えば、そのぐらいにちょうどなるのではないかと思います。
 駅の方から見ると本当にゲートみたいな感じになっていまして、大きな穴ですね。中に入ると、もっと大きな穴が開いていて、そこにたくさんのものが展示されている。これはホテルのロビーでもあるような。だから、美術館でもあるけれどもホテルでもあるという、どこにもないような美術館兼ホテルを造ったらどうだろうと考えました。


 それから日銀跡地ですが、これは大内先生の提案とは少し違ってしまうのですが、僕は市民が文化活動をする拠点にしたらどうかと思いました。金沢市民芸術村を見ていると、本当に利用の頻度が高くて、全然予約が取れないような状況です。それだけ利用者がいるということは、文化活動をしたいと思っている人たちの、いろいろな年代層がいると思いますが、ニーズがあるわけですね。その人たちをまちなかに引っ張り込むということは、大きな意味があるのではないかと思い、市民文化活動のための拠点、場の提案を持ってきました。名付ければ、金沢市民芸術村に対して、金沢市民芸術広場でもいいのですけども、内容としては、金沢市民が日常的に利用できる文化活動の拠点であるということ。それから、作ったり、そこで学んだり、そこで見せる、そういう場所であること。
 それから既存の日銀の建物の一部を活用して風景を継承する。建築の専門的な視点から見ると、あれを残すべきかどうかというのは、かなり微妙な線だなと思うのですが、あれだけ長くああいう場所に建っていて、市民にとっては大きな意味を持った風景、心象風景と言ってもいいかもしれませんけれども、そういったものでもあると思うので、今回の提案では、それを一部残しています。ファサード部分ですね。

 それから北陸の気候風土に合わせた大きな軒下空間をつくったらどうだろうか。雨、雪、そういったものがあっても人が活動して集えるような場所。事例では、新潟県の長岡市の駅前にアオーレ長岡がありますし、富山にはグランドプラザがあります。大きな屋根に覆われた空間で、用事がなくても何となくそこでぶらぶらできる。そんなところが文化活動の拠点になるといいのではないかということです。


 それから水野先生が今熱心にやられております木質都市。これは最初のセッションに合わせて言えば、「金沢ふう」につながっていくのだと思いますが、そういった木質都市を体現するような木造および木質の建築にしたらどうだろうということです。
 あまり大きな建物をでんと建てるのではなく、周辺のまちのボリュームと類似したような、小さなまち。そういった意味でいうと、金沢21世紀美術館のコンセプトと似ているかもしれませんが、その上に大きな屋根がかかっていて、真ん中には大きな広場があり、この広場に通じるいろいろな道がさらに、長町方向のせせらぎ通りまでつながっていくような。先ほど有孔体建築みたいな話をしましたが、建築自体がまちをつないでいく連続体になり得るというものはどうだろうと思いました。


 これが通りから見た風景で、ここに日銀の今のファサードの建築を残しております。その背後に木造の建築が建ってくると。
 中央には広場のような場所があって、そこはさまざまな活動の場所でもあります。金沢の香林坊周辺は、実はお金を払わずに、ふらっと休める場所というのがないのです。そういった意味でいうと、休憩場所としても人が集まってくるような場所。これは細かくデザインはしていないので、窓や開口部はないのですが、周りでいろいろな市民活動をしている、中央にその広場があって、そこに活動も漏れ出してきて、いろいろな人たちが集っている。そんな場所にしたらどうだろうということで描いたイメージ図です。
 今回のこの二つのは、経済効率などを考えたら、現実味はないのかもしれないけれども、経済軸から文化軸へと考えたときに、そこにあるべき建築というのは、経済を主体としたものではなく、文化と人を中心に据えたものにすべきではないかということを考えて提案させていただきました。
 また後ほど模型をのぞいていただければと思います。ご清聴ありがとうございました。

(米沢) ありがとうございました。楽しい提言を頂きました。普通のまちづくりの話であればここで終わるのですが、経済同友会なので、では、その提言について、お金はどうするのだという話になると思います。本日は、われわれ金沢経済同友会の会員でもございます武部さんにお越しいただいていますので、金融についてというか、お金についてお話しいただきたいと思います。

(武部) はい、承知しました。今ご紹介いただきました武部でございます。私は不動産投資顧問会社をやっておりまして、不動産の投資の観点から、今お話を頂いた都ホテル、そして日銀金沢支店跡地について少しお話しさせていただければと思います。あくまで不動産投資顧問会社としての意見でございます。
 まず一般的に、都心軸を考える、まちを考えると言われたときに、不動産投資顧問会社は、すぐ結論を急ぎます。では、どうしたいのですかと。まちを変えたいのですか、変えたくないのですか。すぐこの議論になってしまう。例えば、まちを変える立役者としてよくいわれているのは、若者、よそ者、そして、ばか者でございます。では、この大きな役割とは何でしょうということですが、ばか者というのは、よそから来て、そして地域のことも考えずに、全てを壊した上で、新しい価値を創造します。そこに若者が吸い付いてきて、新しい収入、需要を生み出します。そして、よそ者がお金を持ってきて箱物を造る、不動産を造る。悪い言い方をするとこういう言い方になるのですが、一般的に、若者、よそ者、ばか者がまちを変えるといわれている要素は、こういったところにあろうかと思います。
 では、われわれ投資顧問会社から見て、そもそも金沢って、変わる必要があるのですか。若者、よそ者、ばか者に、まちを委ねる必要がありますか。金沢の都心軸の魅力って何でしょうか。先ほどお話のとおり、変えるか、変えないか。そこから考えてみませんかというところが、私からのお話でございます。


 まず原点に戻って、都心軸の魅力って何だろうかというお話をさせていただきます。あくまで一般論でございます。
 人に便利で、人が集まって、とどまる場所があって、そのとどまる場所が連なって、まちに活気が生まれる。これが都心軸の魅力の原点だと考えます。

 便利ということについては、皆さんよく概念は分かっておいでると思います。では、人を集めるってどういうことなのだというお話で、先ほどの大内先生と少し重なって、どきどきしておりますが、私も事例の中にGINZA SIXが入っております。一つは、トーチタワーといい、今東京駅前で、390m、日本一のビルを建てましょうという計画が三菱地所からあります。そして、既にお話のありましたGINZA SIX、これも今銀座のまちなみの中に調和した建物ということで、お話しいただいたとおりでございます。
 三菱地所が建てるトーチタワーは、390mということで、ランドマークでいうと単独型とわれわれは考えています。つまり、この建物を中心にまちが出来上がる。GINZA SIXは高さ規制60mに合わせて建てました。つまり、まちのランドマークが複数連坦するという連坦型と、われわれ投資の世界では呼んでおります。
 では、この二つの共通点は何でしょうか。まず、法律を変えたことです。東京駅前で390mのものが建つというのは、通常の法律では考えられません。そういうことをするために法律を変えました。そして、先ほどお話のとおり、森ビルは床面積が足りないということで、道路の上に建物を建てました。こんなことがなぜできるのだという、この二つ、法律を変えたというところが共通点です。
 もう一つは、文化施設を入れたことです。トーチタワーは劇場が入ります。GINZA SIXはご承知のとおり能楽堂が入っています。なぜこんなことができたのか。文化貢献提案といったものを行政に行ったのです。われわれ民間が、「こういうことをして文化に協力するから、床を増やさせてくれ」と言うことに対して、行政は、「分かった。それはいい提案だ。まちの発展にもつながるから協力するよ」ということで、法律が変わったという例です。
 東京の民間のビル、まちづくりというのは、はっきりと言うと、人がたくさん来て、そこに欲望、欲求がたくさん付いています。そういったところで需要が起きている。一方で、その需要を支えているのは、文化という歯車が品質を回していることです。品質を上げることで対価、つまり通常では考えられない代金というものが発生する。それによって東京のまちづくりは供給という不動産を建てても、需要と対価のバランスが取れるという素晴らしい仕組みになっています。バランスが保たれております。つまり、私から言いますと、東京は世界基準の文化で勝負しているということが言えると思われます。


 では、舞台は東京から金沢に移ります。皆さまが一番ご存じのとおり、金沢は2015年、新幹線で東京から非常に近くなりました。歴史的な遺産、そして文化的な建物がたくさんあります。そして、お寿司もおいしい。工芸にも親しんでいる。皆さんのお持ちの家のお箸は、通常の県外の人から見ると高いと思います。お茶碗も高いと思います。そういったことを愛でる文化がある。つまり、東京と同じく、金沢には五感を満たす文化というものが存在しているというふうに、われわれ投資の世界でも考えております。だから、他県のことは申しませんが、石川県だけ、たくさん東京から来てくれました。それはそういった文化が支持されたと考える方が自然ではないでしょうか。

 では、先ほどのお話のとおり、東京のまちづくりと金沢のまちづくり、投資の世界でいうと何が違うのだろうか。東京から人が来ました。その人は金沢にすごくいろいろなことを求めています。つまり、欲求があります。それが需要を押し上げました。ところがどうでしょう。民間に限っては、文化建物がなかなか育たない。そういった中で、品質を上げることができない。だから対価につながらない。そうすると建物はどうなるか。経済建物しか建たないという理屈になってしまいます。つまり、文化を東京のように組み込めるゆとりがないというのが、金沢の現状です。


 では、この規制の中でどうしたらいいのですかということになると、床を大きくするために天井高を低くします。先ほどトーチタワーの話をさせていただきました。390mで63階しかないのです。つまり階高6mなのです。一流のビルは、4.5〜5mになっているのに、金沢の駅前は60m(高さの限度)です。12階しか建たないのです。そこでそろばんを合わせるときには天井高3mぐらいにして、天井の低い建物で18階建てるしか手がないのですよ。そんなことができるのは県外しかないのです。金沢に未練がないからです。そういったことを考えると、いろいろな思いがあるでしょうけれど、これを私はあえて強く言いたい。床を大きくして、共有部分、つまりエントランスや通路を狭くして、レンタブル比、貸し出せる面積を増やさないと金沢は回らないのです。それが金沢の実情なのです。
 簡単な計算です。土地を5と見て、建物を6建てられるとしました。そうしたら、1に対する建物の土地に対する負担は0.83になりますが、建物を9にするだけで、土地の5の負担が0.56まで落ちます。つまり、土地に対する負担が軽減される。これをもって、私は何も安くついたから、たくさん貸せとは言いません。そういった部分をうまく文化施設に回すことによって、建物一つ一つに文化を愛でることができると。つまり、先ほどお話しさせていただきました、まちを変えるポイントというのは、若者、よそ者、ばか者ではなく、金沢では若者、よそ者、うち者、そして若者はエネルギーで変えてください。よそ者は資本力ではなくて、事業力を提供してください。そして、うち者は、資本力と文化見識を提供しますということが、私は非常に理想的な金沢のまちづくりではないかと考えます。


 よそ者というのは、県外の方です。大手には資本力がありますよね。なぜその資本力を使わないのですか。うち者に、それだけのお金がご用意できるのですかという疑問が湧いてくるかと思いますが、私は投資顧問会社なので、いろいろな県外の資本とお付き合いをさせていただいております。本音を言いますと、よそ者は、うち者と一緒にビジネスがしたいだけなのです。でも、うち者は縛った規制で、よそ者に不動産を丸投げするのです。「これだけの規制の中で、うまいことやってこい。うちは一歩も譲らんぞ」と言うだけなのですよね。だから、よそ者にばか者が交ざって、「東京の常識はこんなんですよ。世界の常識はこんなんですよ」とうち者に言うと、うち者は分からないから、そうなのかなと思って譲ってみたら、金沢として、すごく大切なものを譲ってしまっているということが、名前まで言いませんけれども、先例では幾つもあります。そういうことでいうと、よそ者は、何もお金を持ってくるのが仕事ではないのです。


 こちらの絵を見てください。よそ者は、東京に木があって、枝が金沢に来ているだけで、そこまで金沢に投資できないのに、大手だということで、100億持ってこい、200億持ってこいと言われても、高さ60m規制の方が楽なのです。18階建ての建物を建てて逃げればいいのです。建てて売ってしまえばいいのです。でも、われわれ地元の者は、やはり駅前で建てるとなると一流のものを建てたいので、やはりどうしても階高が4.5m、5mは最低要るということを考えると、今までなかなか決断ができなかった。良い場所によそ者が関わるというのは、責任感の問題でもあるということだけ、あえて言わせていただければと思います。


 では、もう一つの疑問です。よそ者は、本当はビジネスをしたいだけで、「あっ、そうか。お金を持ってこなくてもよかったんだ、ノウハウを提供できればいいのだ」と。よそ者がビジネスをするときは営業ですが、投資をするとなるとよそ者企業の財務も関わることとなり、金沢でビジネスをしたい営業部門と地方都市金沢で不動産を保有したくない財務部門との間で軋轢が生じ、妥協が生まれます。その妥協に都合の良い話が60mの高さ規制です。ただ事業に責任を持つ(保証)ことは営業部門の範疇なので、よそ者には資金力より事業力に期待したほうが良い。では、うち者の実力はどうでしょうか。都ホテル跡、日銀金沢支店跡は、恐らく高額な土地になると思います。金沢のうち者でできるのかということですが、答えから言いますと、何ら問題はありません。金沢は日本、東京の投資家から見たら、眠れる獅子と呼ばれているのです。金沢にはえらい資産が眠っていると。ただ、残念なことに、金沢の方は投機が嫌いなのです。つまり、5年後に倍になるよという話には乗らないのですよね。むしろ5年後は元金だけ返すけれど、月々の利息だけは間違いなく払いますという投資に関しては、何ら東京の人に負けることはないということが私の投資顧問会社の経験上のお話です。つまり一つの方法としては、金沢には十分、日銀の跡も、都ホテルの跡も、これは近鉄さんのご了解を頂かないとできないことですが、力はあります。


 そして、一つの受け皿としてのやり方というのが、先ほどお話をさせていただきました地産地消の考え方です。金融を地元で集めて、地元で運営して、そして県外の方に協力していただいて、共に収益を生んで、きちっと責任を持って配当するという仕組みさえ構築できれば、地元の金融機関と地元の企業より集まるお金のボリュームは両事業の推進に何ら問題はありません。つまり、よそ者はビジネスをしたいだけ。金沢でビジネスをしたい。うち者から「一緒にビジネスしましょう。ビジネスに交ぜてあげますよ。お金は地元が用意します。ただし、あなたも交ぜてほしいのなら、責任を持って運営はしてください。われわれも協力します。その月々の家賃は責任を持って払ってくださいよ」といったときに、大手は、ものの見事、プライドにかけて責任を持ってくれます。これはわれわれの経験でございます。つまり、初期投資というのは、なかなか大手はできない。でも、そこはわれわれは得意な分野なので、そういったことでいうと、われわれ地元が責任を持って箱物を守っていく、地元の財産を守っていくという心意気というか気概が大切だと思います。
 先ほどお話を頂いている中で、低層の魅力から高層の話になって大変申し訳ないのですが、金沢だって、きっと低層の魅力が評価されるときが訪れます。ただ残念なことに、今対価、もらえる価値が上がっていないから、いくら需要があっても供給が追い付かない。不動産というのは、一つ一つの事業を一人歩きさせることで、その連坦がまちを発展させるので、採算が合わないことをやればやるほど、まちは衰退してしまうのです。まずは、まちに力を付けることが大切です。私も決して高層を望んでいるわけではないのですが、今はまずは必要なところに必要な能力を付けるという意味から、金沢の規制緩和、高さ規制を緩めるということまで踏み込んだお話をさせていただいて、すみません、ご無礼を言いましたが、投資顧問会社としての話を終わらせていただきます。ありがとうございました。

(米沢) ありがとうございました。はっきり言っていただいて良かったと思うのですが、先ほど会の前に武部さんとお話ししていて、大体金沢の駅前って、どれぐらいで買い手が来ているのですかと言うと、大体坪500万円というお話をお聞かせいただきました。ということは、1400坪で70億円です。しかし、武部さんには、十分地元で集められるというお話をお聞かせいただいたのですが、ここは代表幹事というよりも、地元バンカーとしてどう思われているか、ちょっとお聞かせいただければ。いかがでしょうか。

(浜崎) 武部社長、いつの間に。地元金融機関ってあまり書いてもらうと、ちょっと困るのですけれど。

(武部) すみません(笑)。

(浜崎) 地元で商売をしているわれわれにとりましては、先ほどからお話が出ていますけれども、県外の人たち、あるいは海外の人たちに対する目線は、どうしてもウエートが高いのですが、地元目線というのも大事なのではないかと。日銀の跡地なども、やはり地元目線で一つの文化というものを考えてほしいなと。地元の人が住みよいまちというのが、いずれは文化を生んでくるということにつながると思います。具体的に言いますと、例えば地元の人が、文化といってもいろいろあって、芸術、演劇、コンサート、そういったものが享受しやすい。日銀の跡は一等地でございますので、そういう施設。歌劇座とは言いませんが、そういった。今の歌劇座ですと、演劇をする人たちが、古くて、なかなか当地に来てくれないという事情もあります。そういった意味では、日銀の跡地をそういった場所にしていただければ、地元の人が集まる。まちのにぎわいになる。コンサートや演劇が終わった後、そこで飲食をしたり、そういうことができる。
 私は別に劇団四季の人と話したわけではないのですが、劇団四季は日本海側に拠点がないということを聞いております。例えば劇団四季と年間契約を結ぶとか、いろいろなことで、地元の人がわざわざ都会へ行かなくても、そういうものが享受できる、そういう環境、施設であればいいなと。そこにホテルなり、他の文化施設もいいのですが、そういったものも必要なのではないかと私は思います。
 もう一つは都ホテルです。日銀は売却されることがはっきりしていますが、近鉄は、売るのか、そこにもう一回投資するのか、まだはっきりしていない中で、いろいろわれわれが申し上げるのも大変失礼なのですが、いずれにしても、地元の経済団体としては、いつまでもあのままでいてもらっては困るというのが本当のところでございます。武部社長ではございませんが、地元のファンドといいますか、地元の人たちで投資をする、建物を造る。そんな中で、石川県のシンボルとなるものを地元の人たちの手で立ち上げるというのが一つの選択肢かなと私は思います。そこに人が集まる、例えばアリーナみたいなものをつくって、いろいろなイベントができる、コンベンションもできる。あるいは、先ほど大内先生とも話していたのですが、最近は駅前に病院や公的機関が出てくると。要するに地元の人にとって非常に便利な位置付けのものをつくるというような話もあります。そのようなものをオール石川でできればいいのではないかと思います。

(米沢) ありがとうございます。代表幹事からオール石川という大変心強いお言葉が出ました。今、うち者という話が出ていますが、今日見ましたら、みずほ銀行の金沢支店長さんがいらっしゃいます。彼は金沢生まれの金沢育ちで、現在、大手の都銀にいるということで、彼はどう思っているのかなと思って、ちょっと聞きたいと思いますが、いかがでしょうか。

(泉屋) すみません、よそ者の銀行の、みずほ銀行の泉屋でございます。私は生まれも育ちも、高校まで金沢におりまして、盆と正月は金沢に新幹線で帰ってきて、鼓門を抜けたら、あの土地というのが、非常にはがゆい思いでした。金沢支店長になったら何かいいことができるのではないかと思って、胸をわくわくさせましたが、やはりなかなか難しい。今、米沢副代表幹事からもありましたが、結局、今何も動いていないところは、全部よそ者が土地を持っている。近鉄もしかり、明治安田生命もしかり。というところで考えると、やはり土地をいったん金沢の人間が持たないと、結局、何も進まないのだなということを今日改めて思いました。
 実は着任以来ずっと、この土地ってどうしたらいいのかなというのは、真正面ということではないのですが、お客さまと話をする間でいろいろ会話をしているのですね。そうすると大体金沢のお客さまは、「これはどうにかせないかん」、とか「あんなのは金沢の恥や」というふうに言うのですけれど、かといって、では何か起こすかというと、なかなか難しい。先ほど70億円という話がありましたが、公示価格で見ても42億円ぐらいという土地で、なかなか一つでできないので、浜崎代表幹事の「オール石川」というところで、私も金融機関の端くれとして、ぜひやりたいなと。
 よそ者として、もう一つ何ができるかというと、みずほ銀行は全国に支店がございます。当然、大阪にも基盤があって、近鉄さまともお取り引きがあるというところからすると、いろいろな意味で黒子になって、地元にお役に立てるのではないかとは思っておりますので、今回の武部社長の話も聞きながら、大変心強く思っております。何か一つできることがあれば頑張っていきたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。ありがとうございました。

(米沢) ありがとうございます。都銀の一部、うち者も、あえて応援の参加をしたいと思っていらっしゃるようです。武部さんが自信を持っておられましたが、先ほど70億円と言いましたけれど、それは建設資金を入れたら100億円とか150億円という話になりますよね。そんな力、今ここにあるのですかね。私はちょっと疑問なのですけれど。

(武部) あります。150億円が200億円になっても、と私は思います。

(米沢) 投資顧問の社長がおっしゃっているのだから。そういう意味では、具体的になりまして、今、日銀跡地は、多分、金沢市がお買いになる方向にいると思うので、私どもは、都ホテルの跡地に絞って、オール石川でどのような仕上げができるかということを少し考えていけばいいというか、現実に早く動かないと、購入者が何人も現れているという話を聞いています。ただ、近鉄ホールディングスも、長年、金沢にお店を持って、思いがあって、変なところには売らないということで、これだけ延びているという話も聞いておりますので、そういう状態の中で、近鉄さんも入れた話で前へ進めないと、これはなかなかうまくいかないなと思うけれども、やはりうち者が相当覚悟しなければいけないということは、武部さんのおっしゃるとおりかなと思います。

(福光) お聞きしていて、大変心強いお話を頂きまして、かつ、浜崎代表幹事のお話も大変心強く。百年の計としては、今やるべきではないかなと。というか、やらないと今度は、ばか者にばかにされそうなので、そういう方向で持っていけるように、今日が一つの再スタートになればいいなと思って聞いておりました。ありがとうございます。

(米沢) ありがとうございます。どなたか何か発言したいとか、「私応援する」という方、いらっしゃいますか。

(浜崎) 再度武部社長に確認をさせていただきますが、やはり地元でやるとしたら、ある程度投資効果というのが要りますよね。そんな中で、やはり現状の高さ制限では、駅前は無理ですか。

(武部) 今は無理です。といいますのは、金沢の駅前に見合った品格のものを建てようと思うと、先ほどのお話のとおり、階高4.5〜5mは絶対要ると思います。60mで12層で、金沢の現状の賃料では、とても吸収できないと思います。通常、東京ですと、いろいろな文化施設を入れた付加価値ですね。東京などに行くと、建物には美術館が入っていたり、劇場が入っていたり、先ほどの能楽堂が入っていたりする。こんなビルで働きたいという会社が家賃を割り増ししてくれるのです。それが東京の物価を上げているのです。金沢は今ずっと高さ規制で、経済建物ばかり建っていますので、その付加価値、企業が余分に家賃を払ってでもここに入りたいという、燃え上がるものがないのですよね。そういう中で今の対価というのはありますので、規制緩は必須です。また金沢の駅前なので、お客さまを迎えるに当たっても、そこをある程度緩和しないと、採算的なものは非常に厳しいということは言えると思います。

(米沢) ただ今のお話ですと、企画立案次第で、アイデアさえあれば、入ってみたいというような可能性はあると。

(武部) あると思います。

(米沢) 要するに、公共的なものも入れてという話で、先ほど言いました、金沢21世紀美術館の別館というのは、世界中からお客さまを呼べるような話にもつながっている。もし、それが入っていただけるような構想にすれば、大変魅力的なビルになるという話でよろしいですか。

(武部) はい。むしろ、おっしゃるとおりで、文化を官は官、民は民というふうに分けずに、むしろ民と官がお互いに切磋琢磨するところはして、協働できることは協働してやって、そして誘致をして、お互いにその施設の文化レベルを上げていけば、民にも効果がありますし、そして官にも、もちろん美術館にも良い効果があると思います。そうすることによって(収益)単価を上げていくということは可能だと思います。

(米沢) ありがとうございました。特に会場からご発言は。青年会議所理事長が朝からずっと出ていただいているので一言どうぞ。

(中島) 貴重な機会を頂きまして、ありがとうございます。本日、3つのセッションを聞かせていただいて、われわれ青年会議所としても非常に関わってくるところだなと思っております。先ほどのボストン構想の中でも、やはり金沢は学生と関わることを、どの地区よりも先駆的にやってきたまちでもあるので、その学生とまちなかで何か連携できる場所がこれからさらに求められてくるのではないかと考えています。私が小さいころは、まちなかに大学があって、小学生もいたりという環境だったのですが、今は学生が大学キャンパスの方に移って、なかなかまちに出てこられない環境にあります。まちなかでサテライト的な授業やミーティングができる場所があることで、都心部の活性化につながるということも考えられると思っていたので、そういうところで青年会議所も連携することができたら、ありがたいなと感じております。

(米沢) ありがとうございます。青年会議所も、知恵も出すけれど、お金も出す時代になるかもしれません。

(中島) 頑張らせていただきます。

(米沢) それでは、最後に、パネリストの先生方から一言ずつ何かございましたら。明日の討論も、もちろんご参加いただきますけれども。

(大内) では一言だけ。実は大学も相当変わらないともう生き残れない時代になっているので、できれば、これだけたくさんある金沢の大学のどこかが重点的に、「いや、すごい大学ができた」というふうに変わるための何か仕掛けを用意しないといけないと思うのです。例えば世界で本当に一流といわれている大学は、アメリカもイギリスもそうですが、学生数より、ファカルティメンバー、教える人たちや研究者などの数の方が多いのです。その人たちがさまざまな活動をするので、学生はさすがにそんなにお金を持っていないのだけれど、いわゆる研究者たちが文化活動であったり、お金も落としていくということで、それがまちの魅力にもなります。私はできれば、これだけたくさんある金沢の大学の一つか二つ、何かがらっと違う大学に変身するための何か活動というか、そういう支援をこれから考えたらどうかと思っています。

(米沢) ありがとうございます。それでは、大学にいらっしゃる竹内先生、いかがですか。

(竹内) 武部さんに聞きたいのですけれど、僕は、やはり何でもかんでも床を造るということに対して、どうしても抵抗があります。今回はホテルということで提案させていただいているのですが、ホテルというのは多分貸し床とはちょっと違う。もちろん、部屋の単価にもよるとは思いますけれども、必ずしも容積率いっぱい使わなくてはいけないというものでもないのかなと思いまして、それでホテルという提案をさせていただきました。とにかく開発と呼ばれる言葉に代表されるように、つくらなければいけない、とにかく経済を回していかなければいけないということを、いつまで続けるのだろうと。そういった中で、文化とか都市の品格ということが本当に保たれるのだろうかという疑問は、正直個人的には思っておりまして、そういったことも一つ今回の議論の中で話させていただければという感想を今日は持ちました。

(米沢) ありがとうございました。今竹内先生がおっしゃったことは、明日の午前中のテーマにも含むかなという気がしています。確かに、家賃ということではなくて、1泊20万円、30万円の部屋ばかりなら十分採算が合うわけなので、果たしてそんなことが考えられるのかどうかという気がいたします。
 それでは、お約束の時間になりました。明日また皆さんと討論したいと思います。
 第3セッションは、これで終わります。ありがとうございました。