第6回金沢創造都市会議

金沢創造都市会議2011 >基調スピーチ

基調スピーチ

■テーマ 総合テーマ「都市の再創造」

新幹線開業で始まる本格的な都市間競争
「石川・金沢型のルネッサンスで歴史の審判に耐えうる再創造を」





金沢創造都市会議開催委員会会長
社団法人金沢経済同友会代表幹事
飛田秀一

 私が今から話をする内容は、基調というよりも、私の独断と偏見ということでご理解賜りたいと思います。
 「都市の再創造」というのは、日本全体の何か一般論で、われわれにとってみれば石川の都市の再創造、それも何か分かったようでいて分かりません。もっと簡単な言葉、「再創造」に一番ぴったりする言葉はないかと思って探しておりましたら、石川の、あるいは金沢の「ルネッサンス」と言った方が多くの市民に理解いただけるのではないかという気がいたします。
 私が経済同友会の代表幹事になりまして、いろいろな提言をしたり、石川県や金沢市がいろいろな施策を実行されるのを点検しておりまして、ルネッサンスに向けて、いろいろなこと、おかしいこともありますが、総体として合格点を差し上げてもいいような状況にあるのではないかと認識しているところです。
 われわれがルネッサンスと言う以上、避けて通れない大前提があると思います。それは、2014年度末の北陸新幹線金沢開業です。全国の多くの人、現在の新幹線の建設に携わっていない多くの人、ひょっとするとこの地域の多くの人も、新幹線の建設というものは東京に行くのが便利になって速く行ける。今までなら電車で行くと相当時間がかかり、また飛行機に乗ると揺れるのではないかという心配があり、飛び乗ることもできないので、新幹線なら便利だという認識の方が相当数いらっしゃると思うのです。ただ、われわれ経済に携わる者は、東京に行くのに便利になるという視点だけで新幹線をとらえては、とんでもないことになります。関東圏とこの地域の都市間競争というものに打ち勝つなどと、生意気なことは言いません。しかし、私はこの都市間競争に判定勝ちしなければいけないと思うのです。判定勝ちというのは、5.5対4.5でいいのです。5.5と4.5の判定勝ちにいかに達することができるかが、石川のルネッサンスのための大前提であると思うのです。
 この近辺の地域を見てみても、例えば上越新幹線では新潟が終点になりました。新潟市と関東圏の都市間競争はどうだったのか。私は神様ではありませんから、どちらが勝ったかは分かりません。しかし、多くの関係者の話を総合しますと、どうも新潟市が判定負けをしています。われわれの北陸新幹線の途中段階である長野新幹線では、長野市と関東圏の都市間競争はどうであろうかと考えてみても、やはり判定負けをしているというのが関係者の総合的な見方だと思うのです。
 これはなぜかと考えてみると、関東圏を太陽とすると、長野市は水星ではないかと思うのです。新潟は金星ではないか。1時間半以内ですから、やはり非常に近いです。そうすると、仮に長野や新潟に多くの方が来られても、1時間数十分ですから、用事を済ませてそのまま帰られるというケースが非常に多い。その点、金沢は2時間半です。「水、金、地」の地球で、2時間半という時間は非常に適正な距離だと思います。金沢に来られて用事を済ませ、そのまま帰るには相当の距離があります。2時間半というと、京都と同じぐらいだと思います。東京―京都と似たようなもので、東京―金沢は相当の距離がある。そういう地理的条件は、前提として恵まれていると思うのです。
 そういう観点で見ると、新幹線の駅ができたところと大都市圏との綱引きは、大抵みんな判定負けか、完敗したようなところも多いのですが、金沢は判定勝ちをするような地理的条件にあるというのが、その前提条件としてプラスであると私は考えているところです。
 そのことを念頭に置いて、しからばこのルネッサンスのためにどうのような施策が行われてきたのか、2〜3、具体的な例を挙げて考えてみたいと思います。
 20年前に金沢大学が郊外に移転しました。そして石川県が金沢城内の土地を取得することになり、兼六園の斜め前にある金沢大学の附属小・中学校の校舎ならびにグラウンドを金沢市が取得することになりました。それから、県庁が都心から駅西に移転するという話が具体化してきたのが20年前なのです。
 それが現在、20年たってどのようになったか。一番最初に市民、県民の前に具体的な姿として現れたのが、附属小・中学校跡地の21世紀美術館だと思います。21世紀美術館は7年近くたちまして、市にお聞きしますと総入場者数が1000万人を超えているのです。7年間で、美術館ですよ。しかも、現代アート、現代美術、コンテンポラリーを収集している美術館に、年間150万人を超える人たち、これは別に観光客、外国人といった方ばかりではなく、地域の人、小学生、中学生、高校生、大学生を含めた総人数が年間150万人を超えるなどというのは、大変な奇跡だと思うのです。よくぞこういう奇跡が可能になったものです。今もいろいろなことを言う人はいます。ものをやると、100%の方が賛成というのは、理屈の上ではあるかもしれませんが、実際はなかなか難しいです。やはり7〜8割の方が良かろうと言うのが、賛成者が多いという物差しになろうかと思いますが、この1000万人の数字を聞いただけで、恐らく7〜8割の方がすごい施設だという評価をいただけると思います。
 ただし、ここに至るまでが大変でした。その間にいろいろな構想がありました。金沢市の分庁舎にするという構想もあれば、金沢美大の倉庫にするという案もあれば、都心に駐車場が足りないからあそこに巨大な駐車場を造れという案も相当有力でした。
 最終的には市がお決めになったのですが、当地が工芸王国ですから、コンテンポラリーと工芸という形の、現代美術館でも新しい形だと思うのですが、そういう形でスタートさせました。もしこれが違う選択をしていたら、ルネッサンスどころではなかったと思うのです。特別名勝の兼六園の真ん前に巨大な倉庫を建てたらどうなったのか。市役所があっても別にどうということはありません。あそこに路面の駐車場が出現していたらどうなるのか。そうでなかったことを喜ばなければならないと思います。そういう決断を下された関係者に、あらためて敬意を表したいと思います。もちろん私どもも、駐車場や倉庫や市役所は駄目ですと主張した側です。念のために申し添えておきますと、金沢経済同友会という組織もそうでした。
 それから、県庁の移転という話をしましたが、県庁が移転した跡は今、しいのき迎賓館になっています。これは昨年4月に完成しました。前面は大正ロマン風というか、前面には大正時代の建物を残しました。裏の方はもう無茶苦茶な状態で、汚らしい建物だったのですが、裏をガラス張りに改装して、中にフランス料理店やギャラリー、国連大学高等研究所の事務所が入る施設に変わりました。今、出来上がって1年4カ月たちました。これも入場者が1年4カ月で100万人を超えています。1年でも八十数万人です。21世紀美術館の150万人もすごいですが、しいのき迎賓館は21世紀美術館のように大きくはありませんが、県庁跡地に年間80万人を超える人が来るようなリノベーションに仕上がったというのも、結果的に奇跡だと私は思います。
 しいのき迎賓館が誕生までにも、いろいろな構想がありました。放送局を移転しようというものもあり、そうするとあそこに50mの鉄塔が建つのです。それも相当具体的になりかけました。ところが金沢市には条例があって、当時の金沢市長がこれに大反対して、金沢市の風致条例というものに違反する、だから反対であると、議会の場やそのほかの公式の場で表明されました。そういう中で、特別名勝である兼六園の真ん前に50mの鉄塔が建ったらどういうことになるのかということで、この構想は消え去りました。
 それから、これも相当具体的になったのですが、旧県庁の大正時代の建物を全部壊して未来型図書館を造る。未来型と言うと格好いいけれども、今から造ればみんな未来型です。過去型の図書館などあるわけはないのですから、みんな未来型の図書館で、未来や将来、夢と名付ければみんな納得すると思う方が、私はおかしいと思います。未来型は当たり前なのであって、その未来型図書館という構想も消えてしまって、現在の姿です。
 それから、建物自体をなくせという話もあったのです。なくすとどういうことになるかというと、横には中央公園がありまして、あそこが全部芝生になると、夜はなかなか人も通れない怖い場所になってしまいます。そして、そこに天然記念物があるのです。しいのき迎賓館の真ん前には堂形のシイノキ、国の指定を受けた巨大な天然記念物があるのです。これは大変貴重なもので、芝生の中に天然記念物である巨大なシイノキが2本あることが、7〜8割の方の支持をいただけるとは到底思えない。そういう意味で、今のしいのき迎賓館という形で残したのは英断であったと私は思います。その証拠に、大勢の方が来ていらっしゃいます。
 こういうものも、ルネッサンスの中の「まちのRe」ということになるのでしょうか。後ほどご議論いただく三つのセッションの中の、「まちのRe」の成功例だと私は思います。しかし、二つとも大変な難産の結果生まれたもので、難産であるが故にいい子が生まれたのではないかという気がしているところです。
 金沢城公園についても、大学がいなくなったことによって、文化庁の指導をいただきながら、金沢城と言えばかつては石川門しか残っていませんでした。戦災も震災も少なくとも300年間はない土地ですから、本当は残っていなければならないのです。明治の初めに夜中に火事が起きて、二の丸御殿などいろいろなところが焼けてしまったというのが歴史的事実で、その後軍隊が入る、第9師団司令部が置かれる、戦後は金沢大学が造られるという歴史的経過の中で、簡単に言うと金沢城の文化的な価値がずっと破壊されてきたというのが歴史であったと思うのです。
 いろいろな史実に忠実というのは、なかなか不可能なことかもしれません。バリアフリーなどいろいろな工法の違いがありますから、史実に忠実そのものではないかもしれませんが、相当程度史実を尊重しながら、史実に忠実に近い状態で、石川門だけでなく、河北門や橋爪門といったところが順次復元されています。
 その過程で、国の史跡の指定を既に受けました。国の史跡の指定を受けると、価値も高まるとともに、地元だけでは決められなくなります。常に文化庁の専門官あるいは技術官の指導を受けながら、どこまでできるか分かりませんが、順次復元していくというのが、金沢城跡の未来像です。
 こういうものをひっくるめて「まちのRe」というか、特に都心は7〜8割の方の支持を受けると同時に、歴史の審判に耐えられるものでなければいけないと思います。歴史の審判となると、ヨーロッパ風に考えると50年、100年、1000年ということになり、一生懸命やった人は生きていないのだから、そういうことはよく分かりません。50年、100年ということももちろん大事ですが、それよりもまず10年、20年というのも一つの歴史ですから、そういう短いレンジであっても、その10年、20年の歴史の審判に耐えられる施設にしなければいけないと思います。その意味で、今挙げた21世紀美術館、しいのき迎賓館、金沢城の復元整備の三つは、10年、20年のレンジで考える歴史の審判では、十分その物差しに合っている、7〜8割の方の評価をいただけると考えています。
 やはり歴史の審判は大事です。ただ、何百年の歴史と言うと、逆に無責任になります。何か変なものを造って、「これは500年たったらみんなの評価を得られる」と言っても、500年後には誰もいないのだから、それは見方によれば無責任になります。500年に耐えられる前に、10年、20年に耐えられなければいけません。そういう気がいたします。
 今、これをやったのは、民間団体、経済団体であるわれわれの提言も生かされており、実行されたのが自治体であり、自治体は国の応援を得ながらということです。民間も多少なりとそういう努力をしているので、あまり大きい声で言うのも恥ずかしいのですが、後ほど、今日の夕方、セッションに参加された方が行かれるとお聞きしておりますのであえて申しますが、香林坊に香林坊ラモーダというビルを、これは役所がやったわけではなくて、これは小さい声で言いますが、私の会社が建設をさせていただきました。ただ、ルネッサンスということを非常に意識しまして、設計コンペといいますか、いろいろな設計士にコンペに応じていただき、本当にその設計士の顔を見たこともなければ話したこともない方でしたが、そのコンペの結果が素晴らしかったのです。その設計士の案を採用させていただいて、後から見学いただく、あのようなビルになりました。あそこも空きビルになっていて、なかなか権利調整がうまくいかず、結果的に地価が、皆さんそれなりに相場よりも少し高めのことをおっしゃったのですが、相場より多少高くても、経済同友会の代表幹事としていろいろな場で偉そうなことを言っているのだから、たまには自分で、具体的な姿を見せなければいけないという思いもありまして、土地の値段も高かったのですが、それを買いまして、あのようなビルにさせていただきました。
 今、東京等で人気の高いセレクトショップがありまして、これは金沢市の外郭団体が通行量の調査を、あそこの人気セレクトショップがオープンした後ですから、9月か10月にしました。土曜・日曜の香林坊ラモーダというビルのある前の通りの通行量です。ビルの建設前に比較して、市の外郭団体の調査では、通行量が3倍になっています。3倍というのは奇跡とは言いませんが、相当の通行量の増加で、私なども土曜・日曜にたまにあの辺を通ると、何か最新のファッションをした若い方がどんどん通るものだから、「金沢にこういう方がいたのか。一体今までどこにいたのか」と思います。今は少し寒くなりましたので重装備をしますから、それほどハイカラなファッションも目立ちませんが、9〜11月の半ばぐらいまでは大変都会的なファッションを身に着けた若い人たちで、週末はあふれかえっていたというのが、ビルの前の通行量です。それも金沢のルネッサンスにそれなりの役割を果たしたのではないかと思っているところです。
 もうだいぶ時間がオーバー気味ですが、今朝、私は自分のところの新聞で見たのですが、重伝建地区が石川県で6カ所になったのです。金沢で三つ、加賀市で二つ、輪島市で一つの、六つの重伝建地区が指定されました。この重伝建地区の数は、新聞等の報道によると、京都に次いで多いそうです。京都が七つかな、それで石川が6カ所ということで、昨日シンポジウムが開催されました。私は見ていないのですが、今朝朝刊を見ました。そのシンポジウムに参加した作家の嵐山光三郎さんが基調講演をされました。私は聞いていないので、そんなことを言っていたのかは分かりませんが、活字上ちらっと見たのでは、大変この地区のことを褒めておられて、確か、何か、驚くべき、この世のものとは思えないほどの共同体をこのまちの人たちはつくっていると。それは嵐山さんの分析です。この世のものとは思えないほどの共同体をつくっている、このことはまさに奇跡だと、このようなことをおっしゃられたという記述がありました。
 嵐山さんは、この金沢が生んだ文豪である泉鏡花を大変高く評価されていて、明治以降の文豪の中で泉鏡花に対抗できるのは夏目漱石しかいないのだと。彼からすると、泉鏡花がいて二番手が夏目漱石だと。その割に金沢の人は泉鏡花を大事にしていないのではないかというのが嵐山さんの持論ですから、そういう思いもあるのかどうか、大変金沢を褒めていらっしゃいました。まさに奇跡。
 ただ、われわれもちょっと残念なのは、そういうことをさほど多くの方が意識していないということです。冒頭にお話のあった、ユネスコの工芸分野における創造都市ネットワークの登録を受けたこと自体も、金沢市民はそれほど重要に思わない、それから泉鏡花がいること、工芸に関して言うと3人の藝術院会員と9人の人間国宝がこの人口110万人の小さな県に住んでいること、このことが大変な共同体だということを、嵐山さんはおっしゃるのだと思います。そういう評価だと思うので、そのことをあまり意識していないことが少し残念です。
 「泉鏡花はお化けが出てくるだけだ、ああいう小説は嫌だ」と言う方もおられるので、全部が全部とは言いませんが、より多くの市民が、7〜8割の方がこの土地は大変な文化の宝庫なのだということを意識して生活をする、この金沢創造都市会議等がそのきっかけとなるように、われわれ経済同友会もさらに活動を続けていかなければならないという思いを強くしていることを最後に話させていただきまして、文化庁長官の前座のあいさつを終える次第です。ご清聴ありがとうございました(拍手)。


創造都市会議TOP


第一日目 12月8日

第二日目 12月9日

Copyright
金沢創造都市会議2011