第6回金沢学会

金沢学会2012 >第3セッション

セッション3

 

■第3セッション「時を過ごす」 〜朝から夜までの金沢の演出について考える〜

●コーディネーター  
大内 浩氏(芝浦工業大学教授)
●パネリスト     
菱川 勢一 氏(ドローイングアンドマニュアル(株)代表取締役、武蔵野美術大学教授)
平野 文氏(声優、エッセイスト&魚河岸のヨメ)


伝統は革新の連続

(大内) 「時を過ごす」ということで、最初に平野さんの面白い話を伺えると思いますし、菱川さんからも面白い話を伺えると思うので、私自身がどう考えているかはその後で話をしたいと思います。
 皆さんのお手元に私の本がありますが、実はこの本を作った経緯というのは、金沢のここにいらっしゃる経済同友会の方たち、北國新聞社から本を出したのですが、皆さんの本当におかげをもちましてできたということで、非常に恐縮ですが配らせていただきました。
 というのは実は、この創造都市会議はちょうど今年で、両方入れると12年、その前がありますからもう15年くらいになるのですが、その足取りとほぼ同じ足取りで、実は北國総研というシンクタンクが年4回発行している「北國TODAY」という機関紙があって、「経済教室」という欄があるのですが、私は何回か原稿を書いてそれでさよならかなと思ったら、いつの間にか十年以上続いた経緯があります。40回以上書かせていただいて、その中にはこの創造都市会議、あるいは金沢学会での皆さんとのご議論の中から参考にさせていただいたり、あるいはそこから私がいわばヒントを得させていただいたものが、実はかなり隠れています。
 そんなことと、さらに先ほど冒頭に福光さんからちょっとご紹介いただきましたけれども、私が金沢に宮田さんと同じようにあるわなを仕掛けられて、実は30年前に来たのです。私は全く金沢に親戚がいるわけでもなければ、学生時代に金沢で過ごしたわけでも何でもないのですが、たまたま国の仕事をしていまして、国の未来の長期計画を立てるという仕事を手伝っていました。実は70年代後半あたりから「日本は経済大国になったけれどもそれでいいのかよ」という議論を、僕たちはしていたわけです。
 つまり、経済というのは、皆さんご存じのとおり生き物ですので、確かに日本が経済大国になったことは喜ばしいことだと思いますけれども、経済だけでいつまでも大国顔しているというのは恨まれるばかりで、その後はご存じのとおり、思い出せばアメリカから「いい加減輸出するのをやめてくれ」とさんざんバッシングがありましたし、いつまでも1億人以上の人間が経済マシンを振り回している状況は多分続かないと思うし、周りからも非難される。どこかにバトンタッチをして、かつて例えばイギリスが経済大国だった時代、あるいは20世紀はアメリカが経済大国だった。20世紀後半、日本が経済大国になったけれども、その後、日本はどこに向かうのかというような議論を、ずっとしていました。
 そのときの大事な一つのテーマが、あまり好きな言葉ではありませんけれども、「文化立国論」に日本は向かうしかないよと。例えて言いますと、イギリスもそうですしフランスもそうですけれども、経済的にはそれほど大国とは言えないけれども、何かどこかで文化的に、特にフランスは世界でも今でもみんなから慕われています。先ほども幾つか、モンペリエのお話などもありましたけれども、何かみんなにとって憧れの世界です。「ああいう国にできればなりたいよね。日本もそのようになっていきたいよね。それにはどうしたらいいんだ。今から手を打たなければ」というような議論を、実はしていました。
 そのときに金沢で経済界の方たちとそんな話をして、当時、福光さんはまだ若くて青年会議所の理事長などをされていたのですけれども、金沢に来て、この歴史都市金沢をどうしたらいいのだろうと考えたときに、当時の金沢の経済人の方たちは、「何かじめじめとして古臭くて、どうも金沢はぱっとしない経済だ。しかも、古い路地ばかりで流通革命も起こせないし、このまちはかび臭くて嫌だ」という若い経済人たちの集まりの中で、「ちょっと待ってください」という話をしたことが始まりなのです。
 確かに金沢は400年前に前田藩が大変な文化政策を行って、その結果として今、加賀の文化、先ほども「百工比照」という言葉が出てきましたけれども、まさに全国から工芸の匠たちをたくさん集めて、「ここでいろいろな場をつくってあげるから、どうぞやってみなはれ」と、特に三代・利常あたりからそういうことが本格的に始まって、それが今現在の金沢の文化の礎をつくった。そしてさらに、金沢は戦災で焼けなかったという大変ラッキーなこともあって、今、金沢は歴史文化都市という存在であるのですけれども、「その存在も、では400年後、大丈夫かよ」という話をしたわけです。
 つまり、400年前に何かのある政策でもって前田藩がそれだけの文化振興をしたわけです。当時の、いわば佐々木先生流に言えば「創造都市論」を、金沢はやったわけです。それ以前の加賀というのは、御坊があって、一向宗のお寺はありましたけれども、それほど全国から注目されるようなまちではなかったわけです。あるときに文化政策を意図的にやって、それで加賀は全国に誇るような加賀文化を開いたわけですけれども、では20世紀後半から21世紀前半の金沢は、あと100年後、400年後に対して何かしなくていいのかというのが、私の問い掛けだったのです。金沢というのは歴史を生かしながら上手に前衛に挑戦していく、そして次の世代のための金沢をつくることを今やらなければいけない、伝統も初めは前衛だったではないかというようなことを、結果的に私が呪文のごとく言い続けたということが、この本を作った背景にあります。
 今日もそれに関する話もあると思いますので、ちょっとそこは前置きで、早速、今日お招きした二人のゲストからまずお話を伺って、第1セッションでは非常に多くの人たちが遊ぶというか、金沢のまちづくりや遊ぶことに参加するためにはどうしたらいいか、そのための環境をどう整えたらいいかということについて、いろいろなヒントになるようなお話も伺えたと思います。あるいは、第2セッションの方でも同じように、結局、伝統は革新の連続なのだよというお話を伺えたと同時に、インフラとして、特別の専門家や職人ではなくて、ごく一般の人が実は何かを表現する、何かを作るという環境が、もう今は整っているのだというお話もお聴きできましたので、そういうことを前提にしながらお話を進めたいと思っています。
 最初にご紹介したいのは、平野文さんです。平野さんは皆さんよくご存じの人気アニメの声優やテレビ番組でのナレーション等をされていますので、実は声で平野さんをかなりご存じなはずです。もう一つは、築地の仲卸をやっていらっしゃる三代目の小川さんという方とお見合い結婚をされて、いろいろな経緯があって築地にほれ込んでしまったというか、旦那さまにはこの前私もお会いしまた。築地とは平野さんご自身は何のご関係もなかったのだけれども、今住んでみて、いかにあの市場というものが面白いかということでほれられて、それについて幾つか本を書かれたり、それが映画化されたり、いろいろなことで三代目の築地の主人のところに嫁に行ったということで話題になっていらっしゃる方です。築地など市場の話から話を始めていただくことにしたいと思います。ぜひよろしくお願いします。

(平野) 平野文です。今日は百遍くらい金沢にいらしているという大内先生の前座で、少しお話をさせていただきます。私は今ご紹介いただいたように、魚河岸に嫁ぎました。プロフィールというと、普段はこんな仕事をしているのですけれども、もともとは私は子役だったのです。ずっと子役で芝居をやっていたのですけれども、ディスクジョッキーがすごく好きになって17歳のときから芝居を全然やらなくなって、深夜放送でしゃべるのがすごく好きになって、それだったらいろいろとはがきのリクエストに応えていたら、そのはがきの一枚に「文さん、アニメの声をやったらどうか」というはがきが舞い込んできて、「では、やれるかもしれない」と言って最初に受けたオーディションが『うる星やつら』というアニメーションだったのです。
 そういう仕事をしているのですけれども、平成元年に築地の嫁になりました。築地に来てからかれこれ23〜24年になるのですけれども、たまたまこの間、場外の八百屋の旦那さんに声を掛けられて、「おまえさん、嫁になってどれくらいになるんだ」と言うから、「そうですね、そろそろ20年になりますかね」と申し上げたら、ぷぷっと笑って、「ようやくこれからね」と言われたのです。築地というのはそういうところだろうなと、私ももちろん自覚していますし、子どもであれば20年ということは二十歳そこそこですから、やっと大人の扱いをそろそろしてもらえるというということでもあります。築地というのは「近代的な封建制度」という感じで、かなり男社会の縦社会なので、おかみさんというのはきれいにはして装っているのですけれども、外に出たら必ず3歩下がって男の人を立てる。そういうところも何となく、私が今まで仕事してきたところに非常に似ているところがあったので、今までなじめているのではないかなと思っています。
 普段はこんな仕事をしているのですけれども、この漫画のこの絵は、ご覧になっていただいたことがあるのではないかと思います。『うる星やつら』のラムちゃんというのが主人公だったのですけれども、今私は真っ直ぐに声を出しているのですけれども、ちょっと声を上の方に上げると「はいダーリン、うちがラムだっちゃ」という、この声です(拍手)。それから、真っ直ぐに声を出すと、この声ですごく硬い感じに滑舌をきれいにして読むと、「次の四角の中に当てはまる言葉を入れなさい」と、これが『平成教育委員会』の出題ナレーションの声です。またお正月にやりますけれども、こういう声の仕事ばかりしています。旅の番組にも呼ばれて、いろいろなところに行っているので、港も随分拝見しましたし、そのまちも拝見しました。そうすると何かそのまち、そのまちが、いつも自分の好きで嫁いだ築地と共通するものがあるのです。私はまだ百遍も金沢には通っていないので分からないのですが、ひょっとしたら私が二十数年暮らしてきた築地で感じたこと、嫁としての目線で俯瞰で見た築地と今の金沢のまちと、似ているところがあるのではないかと感じながら、今日は飛行機に乗って参りました。
 『築地魚河岸三代目』という漫画が2000年から始まったのですが、3年前に映画にもなって、大沢たかおさんがこの魚河岸の旬太郎という主人公を演じてくださいました。この漫画が2000年にスタートしたときから、監修を頼まれました。それはどうしてかというと、素人目線で築地に入って成長していく三代目の物語なので、私が今まで嫁目線で、築地の中の人が普通に思っていることにいつも驚いて、それを何か文章にしているから、この漫画でも表したいのだというようなことで依頼を受けて、無事に今まで続いています。

 この築地とのそもそものきっかけは、NHKの中継レポートで魚のレポートをしたことが始まりだったのです。やはり築地は特殊なところですので、依頼を受けたときには「全く分からなくて、素直に聞いてもらえばいいよ」と言われました。それで魚のことを素直に聞こうと思ったのですけれども、こういう状況で3Kの職場なのです、怖い・臭い・汚い。女性もほとんどいないところだったのですが、とにかく挨拶とお礼さえきちんとしていれば、しばらくすると隣のマグロ屋の旦那さんがふっと黙ってお茶を出してくれたり、そうやってだんだんとなじんでいったのです。そうしますと、何か心地良いなと。私は東京に生まれてずっといるのですけれども、最初に生まれ育ったのは西荻窪という住宅街です。いわゆる武蔵野ですね。それから『うる星やつら』をやっているころに、少しとがったところの六本木に5年間住んでいました。住宅街の東京、流行の不夜城のような六本木で暮らして、私は三代目の東京っ子ですから、自分が地元で生まれ育った東京人だと思い込んでいたのです。ところが、築地を見たときに、全くそことは違うまちだったのです。築地は東京ではなくて江戸でした。江戸っ子というのは、皆さんが思い描いているイメージ、例えば義理人情が厚くて太っ腹で威勢がよくて、宵越しの金は持たないでという、覗いてみたらそのとおりだったのです。
 本当に絵に描いたような江戸っ子の集団で、しかもその江戸っ子の人たちが教えてくれたのは、「おれたちはイナカモノだから」とおっしゃるのです。「イナカモノって、だって東京のど真ん中の人たちではないですか」と申し上げたら、「イナカモノは田舎者にあらず」とおっしゃったのです。江戸弁での「イナカモノ」というのは「井の中の蛙」という意味なのだと教わりました。私は東京人として暮らしていたとき、田舎者と言われていたときには、本当に地方の人たちのことに対して言う、いわゆる「田舎者」ということだと思っていたのですけれども、それは「井の中の蛙者」、何にも世間を知らない、そこしか知らない人間なのだよという意味なのです。それで築地の人たちは、出会ったのは昭和の最後の方ですが、「おれたちはイナカモノだから」と。それは「自分たちがその築地で生まれ育って、築地しか知らないよ」ということを、恐らく自負して言っているのではないかと思いました。私はそのとき「私の方こそイナカモノだな」と思ったのです。つまり東京人、東京っ子だと思って暮らしていたら、それはとんでもない、東京はもっと違うところがあったではないかと。それが江戸という東京のまちなのではないかと、30歳を過ぎて初めて気が付いたのです。
 そのときから、築地がすごく身近なものというか、すごく好きになって、すごく興味を抱くようになりました。そうしましたら都民登録をしている人たちで、東京都内で生まれて東京都内に住んでいる人たちは、都民登録の2割を切っているという話なのです。つまり、地下鉄など電車に乗っていて、向かい側に座っている人たちの1人くらいしか、本当の東京の人はいないということになるのです。「ああ、それだったらば築地というまち、1日3万人が出入りしている、場内は7万坪の広さ、あそこに携わっている人たちは、本当の江戸っ子の地元の人たちなのだな。暮らすのならここっていいのではないかな」と思い始めたのがきっかけです。
 その築地には全部あるのです。全部あるとはどういうことかというと、雰囲気が全部あるのです。つまり、角界も梨園も色物も芸能界も政界も、そしてちょっとくらいやくざな匂いも、全部あるのです。河岸の人たちはパトロンになっていますから、梨園の歌舞伎の役者のいわゆるタニマチさん、お相撲でも相撲取りの後援会になっている。あとは都議や区議の後援会の会長が河岸の中に何人もいらっしゃる。中央区の区長とも河岸の方たちはゴルフをしている。何かそこはもう一つの市ではないか。東京都中央区ですから、そこは東京都「中央市」という一つの市であるという認識でもいいのではないかとも思っていました。

 「まちが人をつくるのか、人がまちをつくるのか」と考えたとき、私はいつも築地のまちは人がつくったまちだと思っています。あの人たちのあのきっぷが、あの築地というまちをつくったのだろうなと思いました。ですので、私はあのまちでお見合いを頼んだら、江戸っ子の誰かが相手として出てきてくれるのではないかということで依頼をしたのですが、3カ月たっても全然出てこなくて、毎週毎週お願いしたら、本当にたった一人だけ、「年下だけど一人いいやつがいるから、お見合いしてみるか」と言うので、一人相手が出てできました。

 そこで暮らしているのですが、「築地に来ると元気が出る」と皆さん言ってくださいます。私も23年たっても、いい面、悪い面は見えているのですけれども、でもやはり築地が好きで、築地の場内、場外を歩くと元気が出ます。多分、それは会話のある買い物ができるから。いわゆるスーパーなどで通り一遍の買い物ではなく、会話があってそこで日常の自分の心を開いて、そこでやりとりができるから。あとは売っている人がプロだから、そのプロの人たちにお願いすれば、きっとお買い得のきちんとした商品を選んでくれるだろうなという安心感があるから。それからもう一つは、少しミーハーですけれども「ここの海苔は銀座のあそこのおすし屋さんで使っているのと同じ海苔だよ」と聞くと、そののりが家庭でも食べられるというちょっとした優越感。そういう築地の楽しさもある。そういうところでみんな元気が出るのではないかなと思っていました。
 私が嫁いだときは、昔はいわゆる仲卸をやっていましたので、この3Kの職場の中でたまに長靴をはいて、店に出ていました。ここでいろいろと魚の話を教わるのですけれども、例えば「イワシっていうのは七つ星というんだ」「七つ星って何ですか」と聞いたら、「イワシの背中に黒い点が七つ付いている、だからプロは七つ星というんだよ。もっと太くなると金太郎イワシというんだよ。ぷくぷくにまん丸に太ってるからね。そんなことも知らないのかよ」と言われるのですけれども、素人の私は初めて聞くことで、新鮮で新鮮で仕方ないのです。それをちょこっとほかのお友達に話すと「へえ、すごいじゃない。面白いね」ということなので、それが積もり積もって、そんなはずではなかったのですけれども、そういう話を時々するようになりました。
 2000年に父も亡くなって、仲卸の状態もあまり全体で良くなかったので店を閉めて、これが主人、初めてお見合いした相手の小川貢一なのですが、非常に料理が好きだったので、今は築地の4丁目で魚料理屋をやっています。昔の仲間から魚を買ってきますので、いわゆる「親戚価格」で買ってこられるので、自分が食いしん坊で食べたいから、安くておいしい魚を「どうだ食ってみろ」とドヤ顔で出して、「うまいだろう」と半分押し付けているような料理屋ですけれども、そこで皆さんと一緒に楽しく過ごしています。

 少し築地のまちのことをお話ししようかと思います。テレビでも随分報道されていますが、なかなか「行きたいけど、行ったことないのよ」と言う方が多いので、
 ここは場内の魚河岸横丁というところです。いわゆる仲卸店舗というのが2000軒くらいあるのですが、それはいわゆる魚問屋です。そこの「付属商」というところにおすし屋さんがあるのです。これは本来は、その仲卸で買いに来る人たちが、すし屋にちょこっと立ち寄って、「今日の魚はああこれがあるのだな、ではこれを買っていこうか」という情報交換の場であったのです。それが今やこういう行列になって、普通の方々が3時間待ちでも4時間待ちでも外にまで並んで召し上がるようになりました。そうなるとわれわれ河岸の人たち、中の人たちはほとんど食べられない状態で、今は本当に一般の方々が席巻しています。でも「商売のことを考えるとこれでいいのかな、でもどうしたらいいのかな」というのが、中の人の正直な気持ちだと思います。 これが場外ですけれども、場内も場外も同じような状況で、お客様が非常に多いです。ここの右のきらきらなっているところの先の方、ここが晴海通りなので、この先に行きますと三越があって、和光があって、もうちょっと行くと突き当たって皇居になるというところです。
 場外も、ここはラーメン屋さんです。寒いので皆さん非日常的な、こういう食べ方を、「ここならできるだろう」と言ってしています。実はうま味調味料がいっぱい入っているラーメンなのですけれども、こういうところで食べるとやはり「おいしいね!」と言いながら、みんなスープも完飲しています。しかも、これはここだけの話ですけれども、築地の男衆はこういうところでは絶対に食べないのです(笑)。なのでここには河岸っぽい人は誰もいません。でも、そのうま味調味料の魅力に惑わされて、みんな召し上がっています。これはこの間の木曜日に撮ってきたのですけれども、本当に普通の日でもこのようににぎやかなのです。
 もともとこの場外というのは、築地本願寺の境内だったのです。ところが関東大震災で壊滅してしまって、日本橋の魚河岸が築地に来ました。そのときに築地本願寺も倒れてしまったので、再建しなければいけないというので、場外の店舗の方々に境内を売ったのです。ですので、この場外店舗は、また火事が起きても大丈夫なように、銅板のおうちが多いです。いまだに残っています。だからこれは昭和の初めに作ったおうちですね。
 その場外の人たちというのは、場内の魚河岸に買いに来る人たちを見込んで日本橋から引っ越してきた人たちなので、かつお節屋さんやのり屋さんが非常に多いです。これは道具屋さんです。ほとんどの場外のところは、皆さん下を向いて歩いているから分からないのですが、2階が住まいで1階が店舗という、古いいわゆる情緒あるところです。そして、ここに来ると、みんな「いいよね、元気が出るよね、立ち食いしようよね、何か買おうかな」と言ってぶらぶら歩いてくださいます。なので、時間的には、プロの方々は早い時間に来るのですが、8時を過ぎますとこういうところでも皆さん随分とにぎやかしくやっています。
 なぜこんなににぎにぎしくにぎやかになったか。昔はプロ相手のところでしたから、全く閑散としていました。早めに、11時くらいになると店を畳んでいました。でも今や、もう2時でも3時でも先ほどの状況なのです。それがちょうど2年前、大体そろそろ代替わりをするころだったのですが、関東大震災の後、昭和の初めに日本橋から築地に移転しましたから、そのときが初代というお店が多いです。それから二代目は昭和8年くらいのお父さん方。そして三代目が大体60代から50代、団塊の世代から昭和30年年代の方々。それで四代目というのが30代です。今、この人たちが、築地をここまで盛り上げました。
 彼らは30代ですから海外経験もあります。そうすると嫌でも「世界から見た日本」というのを考えるようになりましたし、外資系の会社や百貨店で修行してから帰ってきています。昔の修行はほかの店ででっちをやったり、同業の例えば食品関係だったりするのですが、今や四代目たちは全く異業種で仕事をして、世間を見て帰ってきているのです。だから、今の四代目は「イナカモノ」ではないのです。それで視野が広がっていて、どうにかしなければいけないと思い始める、プラス、築地の移転という問題が出てきました。
 築地の移転は今すごくごたごたしていますけれども、本来、移転するのは場内の、魚河岸の問屋の部分なのです。あそこは東京都の土地ですので、石原前都知事が何とかしたいと言って、再生をということで動いています。ところが場外は、先ほどもお見せしたように土地を買っていますから、自宅兼店舗ですから、引っ越すことはありません。ですから、場外は残るのです。それから場内は、豊洲に移ると中央区から江東区の財源になってしまいます。そうすると中央区は困ってしまうので、場外はこのままやろう。しかも仲卸でも、小さい料理屋さんなど、買い物をしに遠い豊洲まで行きたくない人たちもいるのです。そのために中央区は、矢田区長が一生懸命頑張って、中央区営の築地市場を作ろうではないかということも、実は今考えているようです。なので築地は何となくこのまま、あの雰囲気で残るのではないかというのが大方の予想で、生臭い話は男衆に任せてありますので、嫁はこれくらいしか聞いていないので分かりませんけれども、そのような状況です。
 そしてイナカモノではない四代目たちは、平成23年にNPO法人「築地の食のまちづくり協議会」をつくりました。われわれは「食まち」と言っていますが、ここからお金が出ることによって、イベントがやりやすくなったのです。ですので、場外では今「毎週土曜日の築地は面白い」と言ってお客さんを呼んだり、「春の市」「秋の市」というようなイベントを、NPO法人のお金を使ってやっています。組合員は場外の人たちなのですけれども、そのお金を有効に使ってお客さんを誘致するようになったので、いわゆる生き残っているという状況だと思います。
 ただ、売っているものは普通のものです。先ほど「向こうが晴海通りです」という話をしましたが、その晴海通りから場内寄りに、一本並行しているここに波除通りというのがあります。先ほどの「場外がにぎわっている」と言った本当の場外のお店は、こちらになるのです。ここにプレハブがあって、場内はこちら側になります。ですのでこれは場内と場外の本当に境目のような道を波除通りといいます。ここのプレハブもNPO法人が作りました。ここには何が入っているかというと、今「復興ステーション」といって、ここのテナントを無料で貸し出しして、福島や岩手その他のところからの物販をしてください、築地はお客さんが集まっているから、ここでPRしてくださいねということを兼ねて、ここを無償で提供しています。
 それからもう一つは、インフォメーションが必要だろうということで、この案内所が非常に役に立っています。外国の方もたくさんいらっしゃって、このガイドブックはじゃばら折りのすごく使い勝手のいいサイズなのですけれども、このようなものを考えてこしらえて、無料で配布しています。
 それから、これがそこの隣に隣接している休憩所です。場外というのは、もともとは買い物をするプロの人たちのものだったので、休むところがないのです。お手洗いもなければコーヒーを飲めるところもない。ですので、こういう無料の休憩所とお手洗いを作って、画面では場外の情報を流しているということで、非常にここもにぎわっています。
 それからもう一つ意識改革の中では、これは三代目の英断だったのですが、これは銀座のおすし屋さんに卸している卵焼きです。これが普通のサイズで、大体こんなものです。これは600円なのですが、これだと普通のご家庭では食べきれない。一人暮らしの人も欲しいというので、この小さいサイズ。それから小さい中にも、唐辛子を入れたり季節の松茸を入れたり梅を入れたりという変わり種のこういうものを、普通の方々を意識して作り始めています。手間がすごくかかるのですけれども、「おれたちは問屋だ」という意識を払拭して、意識改革をして、小売をすることによって売上が増えています。
 この卵焼き屋さんがこういうことを始めたので、年末の昆布を売っているようなところ、ここはお婿さんがこのように小売を少し意識して、小袋に収めています。ディスプレーも、こうやって道具屋さんがクリスマスツリーにたわしを掛けて、少し面白い感じでお客を寄せるような工夫も、やはり四代目が、やらないよりやった方がいいだろうということでやっています。
 ついでに能登半島「とと一」というお店がありまして、これはスギヨさんの直営店です。スギヨさんも非常に築地に力を入れていらして、非常に広いです。うなぎの寝床のようになっていて、「香り箱」というイミテーションクラブ、いわゆるカニのかまぼこを、香箱ガニをもじって作っているのですけれども、それも非常に売れていて、コンカイワシ、ブリをひもで巻いたお酒のあてになるようなもの。非常にここはリスクが高いと思うのですけれども、細かくいろいろなものを置いていますので、ここは北陸ファンの人たちは非常に便利だと言っています。私も能登、氷見、金沢、この付近の北陸のものは非常に興味があるので、ここでなじみになってよく買い物をしています。
 このようにしてとにかく、歳末だけではなく、いつも混み合うようになったのは、恐らく四代目の意識改革以降ではないかと思っています。
 いいなと思ったのは、三代目が四代目に言っていた言葉です。自分の子どもたち、今いる幼稚園や小学生の子どもたちが、跡を継ぎたいと思うような親になって、そういう経営をしろと。だから各お店、家族経営の小さい店一軒一軒ではなく、まちを挙げてこのようなことを意識しているのです。つまり、築地のまちはみんな生まれてからずっと一緒なのです。小学校も一緒、中学校も一緒、うちの義理の両親たちなどは疎開先も一緒ということですので、最初に二代目のおやじさんが「おれたちはイナカモノだから」とおっしゃったのは、ずっといつも友達も、遊びにいくのも、向島に行くのも一緒。うちのおじいちゃんが向島に遊びに昼間に行ったら、どんちゃん騒ぎしているのがうるさいな、ちょっと女将に「静かにするよう言ってこい」と言って、女将が頼まれて行って戻ってきたら「旦那さん、うるさくしていたのはあなたのご子息ですよ」と言われたというくらい、遊んでいる場所は全部分かっているというようなところです。
 私にとっては全部あるということと、まち全体が同じ方向を向いているというところで、私はここがすごく好きなのです。女性にとっては男性が非常に優しいので、何があったら全部助けてくれるのではないかという安心感があるのも、魅力の一つだと思っています。
 私が嫁として魚の目利きよりも先に教わった言葉は、「人間、最後は色気と食い気よ」「どっちが本当の最後なの」と聞いたら、おかみさんは迷わず「食い気に決まってるでしょう」と言ったのですけれども、亡くなった父はにやっと笑っただけで、最期の病院では看護婦が来ると破顔一笑になって、もう点滴で何も食べられませんから、看護婦さんだけが唯一の楽しみだったと。そうか、男は最後は色気だなと、それは実感しています。ですので今日は私は食べること、食い気の方で少しお話をできること、何か追加で意見を言いたいことがあれば、大内先生とお話ししたいと思います。
 それからついでですけれども、「佃權(つくごん)」の四代目の旦那さんがおっしゃっていた言葉は、「伝統はつくるもの」。これは本当に大内先生の「伝統も初めは前衛だった」というのとしっかり重なりますし、先ほどとらやさんも、ああいう老舗の名門でも同じことをおっしゃっていましたので、これは今日の裏テーマなのではないかとも思っています。そんなことで、何か参考になるようなことがあればと思いますが、私の暮らしている築地のまちの話でした。失礼しました(拍手)。

(大内) ありがとうございます。多分、皆さんいろいろなヒントが、平野さんのお話からわき出たのではないかと思います。ちょっと補足させていただきますと、実は金沢の近江町市場と築地はちょっと違っていまして、先ほどから場内、場外という話がありましたけれども、金沢ですと、例えば金沢港で魚が揚がってきたときに、いわゆるプロの人たち同士が魚が競り落としていく世界があります。これがどちらかというと築地で言うと大卸といわれている場内市場でやることで、全国からトラック便で、昔は船や鉄道だったのですけれども、今はほとんど全部トラック便で全国から着いたり、あるいは海外から冷蔵冷凍で着いたものを、まず大卸の卸業者が競り落として、その後、仲卸といわれているいわゆる問屋さん、魚の問屋さんが1000軒以上あるのですが、そこへ移るときの現場などは、この時代にこんな世界があるんだと思うというか、すごいですよ。大八車と、あれは何というのでしたっけ。

(平野) ターレットですね。ドラム缶の上にハンドルが付いているような、360度回転する。

(大内) そうそう、昔、空港で使われていた車なのですけれども、それがもう走り回っている。

(平野) 別名、ハーレーダビットソンというのですが(笑)。

(大内) とにかくものすごい活気のある世界で、「どけどけどけー」と言って、ぶわっとものすごい量の魚が一気に、大体最初の競りというのは生きた魚から始まるのですけれども、4時半くらいから始まって、大卸から仲卸に移るのは大体6時ころにはほぼ終わってしまうのです。その後、その仲卸に、例えば普通の魚屋さんや銀座のおすし屋さんなどの方が買いに来られるわけです。
 その周辺に、もともとは、先ほどお話がありましたけれども、例えばおすし屋さんが来られると同時に割り箸や経木(きょうぎ)など、さまざまな周辺のものを用意して、さらにかつお節屋さんなど、要するに魚屋さんやおすし屋さんに必要なものを周りで用意するということで、先ほど平野さんからお話がありましたけれども、ちょっと前までは普通の人には全く縁のない世界で、入ってはいけないという、雰囲気もそうでしたよね。

(平野) そうですね。本当に初めて行ったときは怖かったです。

(大内) そうですよ。そこに最初に目を付けたのは誰かというと、実は外国人なのです。私も70年代後半から80年代ころに、外国の連中がちょっと面白いからと。考えてみれば、あれは世界一の市場なのです。あれほど種類の多い魚を一挙に見るということは、世界中どこへ行ってもできない。

(平野) はい。ですので、マグロの上をまたいでピースですから(笑)。

(大内) そうそう。それで皆さんも外国人向けのホテルに置いてあるフリーペーパーをご覧になったことがあるかもしれませんけれども、ああいうものに、今でこそそうですけれども、昔からそのトップに「東京で一番面白いところは築地だ」と出ているのです。それで、入ってはいけないようなところなのに「おまえ案内しろ」と言われて、私はよく外国人のグループと眠い目をこすりながら、とにかく5時に行かないと本当の大卸の、あの日本語とは思えないような、よく分からない競り落としの世界が見られないのです。そういうところにご案内して、その後、魚がぶわっと仲卸に移って、そしてその後場内で、ちょっと先ほどご紹介があったような、場内のプロの人たちだけが食べるところにちょっと寄ってつまんでということがあったのですが、今はそこまで素人の方たちが入っていって、移転の問題も含めてどうするかということになっています。
 今、平野さんのお話で、本当に幾つかヒントが得られたなと思うのは、「これぞ江戸っ子のまちだ」「この築地のまちは人がつくった」というお話を大変印象的に伺いました。私たちはまちというものに一体どういうものを求めているのだろうかということなのです。実際、築地に行きますと、平野さんはもともと元気のいい方だからあれだけれども、あそこは誰しも元気が出ますね。

(平野) はい。声を出さないと立ち回れないので、声を出さざるを得ないのです。

(大内) そう。誰しも元気が出るという感覚がありますし、そういう世界は今、私たちはいろいろなところから失っているように思っていて、ああいうまちをわれわれはこれからどうしてつくっていけばいいかということも、非常に大きなテーマかと思います。
 それからもう一つ参考にしたいのは、実は築地はもともとプロの世界で、一般の人は立ち入れない感じだったのです。例えば、金沢でも工芸作品、例えば金箔をやっていらっしゃる方、友禅を染めていらっしゃる方など、金沢にはさまざまな素晴らしい工芸品を作っていらっしゃる方々がいますが、そこは普通の方が立ち入る世界ではなかったわけです。しかしそれを、先ほどのお話では、四代目はさすがに海外経験があったり、「なるほど外国人がやってくるということは、おれたちには別の魅力があるのか」ということに気が付いたり、商品を小分けにして卵焼きを小さくしたり、昆布を小分けの袋に入れるというご紹介がありましたけれども、正直言って私が最初に行ったころは、私も実はちょこっと料理をしますので、買いたいなと思うのだけれども、「買っていってもいいよ、だけど箱売りだよ」。要するに一箱でしか売ってくれない、あるいはキロ単位でしか絶対に売ってくれないという世界で、もうしゃくだから一箱本当に買ったことがありますけれども、後がものすごく大変でした。そういう世界だったのが、今は四代目がいろいろなことを考えて、こういうまちにこそ実は魅力があるのだということに多分気が付いた。そして今はということで、そういう意味では金沢の近江町市場はちょっと違う世界で、近江町市場は一般市場、築地で言うと場外市場プラスちょっと卸の世界だと思うのです。
 たまたま先ほど平野さんが紹介されたご主人の小川さんと話して、小川さんも金沢のことをよくご存じで、金沢はどちらかというと、皆さんご存じのとおり、京都の錦の市場に非常に似ていて、朝早くから港からすぐに荷が揚がってきますので、そのときにはどちらかというとプロの方がそこで魚を選ばれて、これをと言ってお買い求めになる。お昼ころになると、食堂もありますし、観光客や周辺の人たちがお食事をしたりちょっとお買い物をしたり、観光客が今ですとカニを買ったりという世界です。ちょっと面白いのは、築地にない光景として、夕方になるとお総菜を買って帰る地域の方がいらっしゃるのです。煮物であったり、ちょっと加工したものであったり、もちろん生ものもそうですけれども、いろいろ晩のお総菜を買って帰るという世界が、実は金沢の近江町にはあるのです。京都の錦市場にもあります。そこがちょっと築地とは違っていて。でも、築地もそういう世界をこれからつくれるのではないかと思うのです。
 ただ、先ほど平野さんからあったように、相手はプロですから、昔は「これはどうやって調理したらいいの」などと聞いたら「何だ、こんなやつに売ってやるか」みたいな世界があったのだけれども、今はだいぶ優しいのですよね。

(平野) はい。四代目になってからはだいぶ意識改革もありますので。

(大内) そうですね。そのようにまちがいろいろな工夫をしながら、築地も今の時代に合わせるように変わってきているのだと、私は平野さんのお話から受け取りました。ありがとうございます。
 それでは次に菱川さんに移らせていただきます。菱川さんは広告やメディアアートの分野でいろいろな新しい試みをされています。今日の「時を過ごす」、どうやって時を刻んでいくかということについても、最初のプレゼンテーションでご用意いただいているようですので、どうぞ菱川さん、よろしくお願いいたします。

(菱川) 今ずっと平野さんの築地のお話に、思い切り僕は聞き手になっていまして、「面白いな。このまま築地の話をしてほしいな」と思ってしまったのですが、平野さんのスライドを見て、慌てて青バックに白文字に変えました(笑)。全スライドをここで一生懸命、「これいいな」と思って変えたのですが。フードトラップで金沢に魅力をなどというよりも、僕はどちらかというと「宮田トラップ」で金沢に関わったような感じです。
 2カ月くらい前に僕も犀川のほとりに一軒家をお借りしまして、支社というか小さな事務所を構えました。東京を中心にやっているのですけれども、金沢にも事務所を持とうかなと思って。ちょうど笠舞のあたりです。徐々に具体的に金沢の魅力を演出するという立場で関わっていけたらなと思っているのですが、今回「時を過ごす」というテーマがあって、僕は考えたらやはり「光と闇」の魅力なのではないかなと。時とはいわゆる時間、朝昼夜と思いがちなのですけれども、ここは「光と闇」という切り口が持てないかなと思いました。

(ビデオ上映)
 今ちょうど金沢市役所の依頼で、金沢の夜景を・・・これは実は編集の途中なのです。昨日、市役所の方に「明日、学会があるので見せてもいいですか」ということで、「途中でほんの少しだけなら」ということで。先日撮影した金沢の夜景です。まだまだ編集の途中なので、粗い編集なのですけれども。あまり奇をてらうようなことはしていないのですけれども、どちらかというとデリケートにいかに撮れるかなということで、東茶屋や主計町、金沢21世紀美術館などを撮影しています。
 演出は僕が入っていますけれども、できるだけ金沢のクリエーター、金沢の人たちと一緒にやりたいと思っていまして、編集は森崎君という若手の映像作家と撮影も一緒にやりました。あと、音楽は宮田さんに頼んでいて「こういう感じで」と。宮田さんはご存じのとおりミュージシャンでもあるので、音楽を依頼して仕上げていこうかなと思っています。撮影のときにはCMなどをいつも一緒にやっているクルーを連れて行って、一緒に撮影をしました。闇を撮影するというのはなかなか難しいので、東京から機材を持ってきて、それで撮影していました。恐らく5分弱くらいのもので、ウェブなどで発表していくことになるかなと思います。

 こういう「光と闇」という話になると、どうしても谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』が頭に浮かぶと思うのです。私は映像作家としてやっていますけれども、同時に武蔵野美術大学で教授をしていますので、やはりデザインやカリキュラムの中に、毎年といっていいほど教材といっていいというくらい、この随筆が出てきます。
 谷崎潤一郎が、いわゆる日本ではむしろ陰影というものを大事にしている文化なのだと、それを建築、照明、紙、食器、用の美などという切り口で語っている随筆です。その中に出てくる言葉や、あともともとは歳時記にある言葉には季語、これは夏の季語ですけれども、日陰、片陰、五月闇、木下闇、翠影という、これは闇を言葉に出すことで陰影を感じさせるような季語ですよね。特に夏の季語としてこういうものが多いのは、夏に光が強いから影として、否が応でも意識せざるを得ないということに関係しているのだと思います。やはりこういう言葉がすごく残っているということに、何かわれわれはヒントを得るべきだなと思います。
 こういったことを観察している中で、一つ文芸的な演出、「光と闇」と言いましたけれども、その魅力をどのように浮き彫りにしていこうかと思うときに、「文芸的演出」というある種のキーワードが頭に浮かんだのです。やはり金沢には、もともと文芸や文化という土壌があると思うのですけれども、そういう文芸的な演出とはどのようなものか、文芸的なプロモーションとはどういうものかということを、幾つかの事例でお見せしたいと思います。(ビデオ上映)
 これは僕が監督をしたNTTドコモのCMです。『森の木琴』というCMで、テレビでも何回か流れたのですけれども、もともとはウェブサイトで公開したものです。これが奇しくも震災前日にウェブ上で公開されて、ニューヨークタイムズが取り上げたのですごくアクセスが伸びて、もう少しで1000万アクセスになるくらいの、すごくたくさんのアクセスをいただいています。
 これで昨年カンヌで三つ賞をいただいて、今年はそのカンヌで審査員をやってきました。やはりそのときにもキーワードとなったのは、もはやプロモーションという世界はインフォメーション、つまり何かを伝えるものではないと。そういうキーワードがすごくあって、今年数々受賞していったプロモーション、例えばCMなどは、どれもこれも情報を伝えようとしている感じではなく、何かどこかに物語がキーワードとしてあるなと思いました。
 実際、僕が監督したこのCMも、ここに情報はあまりありません。やはりこれを見てきれいだ、癒される、その次に感じるのは、一体これで何を伝えたかったのだろうというクエスチョンマークが出てくると思うのですけれども、それを誘導したということがあります。ついついCMというのは、こういう場合にナレーションを入れたり、テロップで説明をしてしまうのです。やはりそのようになってくると情報は、先ほどのプレゼンテーションでも「伝えると伝わるは全然違う」という話があって、それに近いと思うのですけれども、テロップを入れたから伝えることになったとか、ナレーションを入れたから分かりやすくなったとかというのはちょっと違うなと。どちらかというとクエスチョンを引き出すというやり方が、やはり最終的には染み込むのではないかと思います。
 従来、マーケティングや数字など、僕は広告をやることが多いので、よくあるケースとしては、ターゲティングということをするのです。魅力をどのように浮き彫りにするかという手法として、いわゆる調査やリサーチを基にしたターゲティングというのが、従来のプロモーションです。僕の立場では、例えば美大でいろいろ学生たちと一緒に研究をしたり、そういういわゆる数字に直らないようなもの、その魅力を数字に直さない質というものをどのように浮き彫りにしていくかということをやっているわけですけれども、それを感覚的な文芸的演出とするならば、ここはすごく相反しているのです。
 文芸的演出には根拠がないのです。「何でこのようにしましたか」と言われたときに、いろいろ話せますけれども、「では、その根拠を数字で述べてください」と言われても無理なのです。残念ながら広告、例えばそれを企画するもの、もっと言えばプロデュースする場合に、クライアントに費用対効果を求められると、恐らく説明できないのです。説明できないので、提案の時点でもう避けるのです。例えば、ポエティックな表現などというのは、広告ではあまりしない。だけどやはり、例えば審査員としてカンヌに出品されてくるような作品を見てみると、評価を受けているものはほとんどと言っていいほど、すごくポエティックな表現なのです。ここが、文芸的演出がある種伝わりやすいというか、皆さんに染み込みやすい、もっと言えば皆さんが伝えられているようなインフォメーション、要するに情報として伝達されているということに、ある種、もうだんだん飽和しているのではないかと、そのように感じるのです。

 僕がやった三つの事例があるのでご紹介します。一つはJR東日本の東京駅復元プロジェクトと、あと今東京ステーションホテルのPRを担当しているので、それらのやり方について。これを企画するときには、JRからターゲティングや費用対効果を一切求められませんでした。とにかく東京駅が復元するので、これについて演出をするのだけれども、何か考えてくれと。こちらから何か要求することはないということで、ほとんど一発OKというか、もちろん僕の方にもある種の考えがあってやっているのですけれども、ほとんどそこには何か数字的根拠を求められてはいない事例です。
 一つ目のCMがこちらです。これはティザー広告として出しました。
 この演出プランを出すときに、「音楽は絶対にオーケストラでなければ駄目です」と言いました。それはもちろん背景にある百年の歴史や、曲もマーラーをあえて選曲したのですけれども、そういういわゆる生のものでつくり上げないと伝わらないだろうという、ものすごくデリケートで、微に入り細に入りという演出が最終的には刺さるというようなプレゼンテーションをしました。いずれもJRからはそのとおりだという合意をいただきました。 それから、実際に10月のオープンに向けてできあがったCM、完成版とでもいうのでしょうか、それがこちらです。
 東京駅や東京ステーションホテルのプロモーションに今関わっていて、キーワードになっているのはストーリーとエピソードで、それをいかにつくっていけるかということになっています。特にエピソードメーキングという言葉を使っていますけれども、いわゆるブランディングとして何かマークを掲げたり、ある一定のデザインフォーマットをずっと使ったりということが、もはやブランディングではない。いかにその場所などでエピソードをつくれるか、関わった人たち、実際体験した人たちがどういう印象を残せるか、そういうエピソードメーキングというところでプロモーションをしていく。最終的にはそれがリピーティングにつながるという考えで今進めています。
 やはり数や量をただひたすらに追うということではないだろうと。これは「Small Luxury Hotels of the World」というサイトなのですけれども、例えばスタッフの間では「ここに載りたい」というような話になるわけです。これは軽井沢の「星のや」で、日本では、残念ながら金沢では1軒も載っていないのですけれども、軽井沢の「星のや」、「星のや 京都」、博多にあるホテル・イル・パラッツォ、琵琶湖にある長浜のロテル・デュ・ラク、奈良の東大寺ホテル、屋久島のサンカラホテル、神戸ホテルラ・スイート、雲仙の雲仙観光ホテルしか載っていません。
 やはりここは、ミシュランではないですけれども、ある一定のキュレーションがあって選ばれていると思うのです。「ここに載りたい」という感覚がありますよね。そこに載るためには、何か数を上げればいいということではないのです。今挙げたここに載っているホテルは、いずれも客室数は100を切っている、どちらかというと20〜30くらいの客室数しかないようなところばかりで、だけどやはりものすごく魅力的に見えるホテルなのです。何かこういうところに、やはり参考になるようなことがたくさんあるだろうなと思います。
 もう一つはメルセデスベンツのプロモーションに関わりました。Eクラスという、そんなに安くない価格帯の車です。やはり車というのは、ほとんどは何々層ということでターゲティングをします。もっと言えば、地域や家族構成のようなところも含めてターゲティングをする。このときメルセデスベンツは、一切ターゲティングをしませんでした。開口一番、僕がメルセデスのマーケティング部長に言われたのは、「今回はマーケティングの数字は一切無視します。菱川さんの方で何かプランを考えてください。なので要求はありません」。ただ、二つだけ言われました。「女性に売りたいです。女性に100台売ることをまずは目標としてください。1年以内に」と言われたのです。これは1000万円の車なので、100台売ることはそんなに簡単ではないのですけれども、「100台を女性に売りたいです。男性に売れたらカウントしません」と言われて(笑)。厳しいなと思いながら、僕はかなりポエティックな脚本を書いて、長めの映像のプランを持っていきました。そのときの映像を、ちょっと見てみてください。

(ビデオ上映)
 こういう映像です。どちらかというと車主体ではなくて、ある意味女性のライフスタイルが主体です。これを作るときに、結局、あまり説明ができないのです。「なぜこれなのですか」と言われても、恐らく1000万円の車を買うような女性のライフスタイルや性格や嗜好などを考えるとこういう脚本になりますと。これはほんのちょっとツイッター上で、脚本家の北川悦吏子さんと僕がちょっと相談をするのですけれども、「ラブストーリーの神様」といわれている北川悦吏子監督に「今度ラブストーリーをやるのだけれども、どういうエッセンスが必要か」みたいなことで少しアドバイスをいただいたのですけれども、だけどそこには根拠という、では北川監督に「何でそのように思うのですか」と聞いても、「いやいや、こんなこと聞かれても」という感じなのです。
 そんなある種つかみどころのないようなことをやりつつ、それを作って、ネットだけでこのムービーを4種類出しました。あとはYouTubeなどに出したりしたのですが、結果から言うと、1年間100台の目標で女性だけにということで、6月1日からキャンペーンが始まったのですけれども、3カ月たたずに達成しました。
 これは数字ではないと言いながら、実際に最終的に出てきた結果なのですけれども、これはFacebookです。Facebookのアクセスで、これは実はメルセデスの内部資料なのですけれども、こういう場で見せてもいいと言われたので持ってきました。キャンペーン実施前の5月1日から31日にリーチした女性男性の割合。女性30%、男性70%。7:3で男性だったのです。これが、キャンペーンがばんと始まって、しかも特に雑誌広告を女性誌に打ったり一切なくて、しれっとウェブだけで上げたのです。何の告知もしないで、しれっと上げました。Facebookに「こんなものを作りました、どうぞご覧ください」みたいな感じで上がっただけなのですけれども、それで6月1日以降の女性のアクセスが94%だったのです。ほとんど6月中に、メルセデスに発注がかかりました、値段も出していないのに(笑)。何となく高そうだというのは分かるのでしょうね、きっと。
 実際、これがフェリスでアンケートをとったときに学生たちから出てきたもので、なかなか素朴なアンケート結果が出てきています。「すごくおしゃれでよかったです」というような、割と脳天気な回答から、「車があまり出てきていなくて、すごく好感が持てます」とか。やはり従来プロモーションというものは、車で言うと、よく言われるのがスタイリングを見せましょうとかということです。
 これがすごく極端なのは、四つのムービーのうちの一つは、2分のうちに車が出てくるのが合計して10秒を切っているのです。それをOKするメルセデスもすごいなと思うのですけれども、こういうので結果が浮き彫りになってきています。
 僕はメルセデスだけではなくて、日本の家電メーカーを含めて、同じような提案を今までしてきました。だけど最終的に話を聞いてくれたのが、メルセデスだけだったのです。あとはやはり数字を求められました。根拠というか。そこに若干ずれを感じるのです。ずれというか、プロモーションというものに対して、もしくは費用対効果というものに対して、具体的に魅力を演出していくというものに対してどう考えているかというときに、恐らく難しいのですけれども一つの課題として浮き彫りになるなと思います。
 最後に紹介したいのは、大河ドラマです。ちょうど1カ月後の1月6日からスタートする『八重の桜』という大河ドラマを担当しています。これは東北の復興プロジェクトに位置付けられているのですけれども、今回、僕はオープニング映像の監修および全体的なアートディレクションを任されました。実際にスタッフと一緒に福島に足しげく通っていたわけですけれども、これは実際僕が撮った南相馬付近の写真です。いまだにこういう状況なのです。現場に行くとすごく分かりますけれどもいつ復興するか、こんなこと言ってはいけないですけれども、僕は恐らく10年や20年では復興しないと感じました。そんなに簡単ではないと、やはり現場に行くと思いました。やはり風評被害も含めてですね。
 今それを、福島を盛り上げようというようなことも含めてやっているわけですけれども、これは綾瀬はるかさんが主演で「ならぬことはならぬ」というキーワード。恐らく言葉としてははやるのではないかと思いますけれども、「駄目なものは駄目だ」という「ならぬことはならぬ」という名せりふが第1話でいきなり出てくると思うので、これは恐らく印象的な言葉として残っていくと思います。会津藩の話です。
 ここで僕はオープニング映像を担当していて、実はオープニング映像に関してすごく大事なことがあるのですけれども、発表前なので、本当に喉元まで出ているのですけれども言えないことがいっぱいあって、その中で言えることを探っていくと、坂本龍一さんがテーマソングを担当されています。『八重の桜』という題字は赤松陽構造さんという、北野映画などをずっとやられている方です。基本的なコンセプトは「挫折からの再生」なのですけれども、やはりここでも「文芸的演出」というキーワードを出していますけれども、ものすごく生(なま)にこだわっています。撮影現場もいわゆるCGや合成に極力頼ることなく、人同士でやると。綾瀬さんもいわばアイドルなので、僕自身お会いするまではどんな感じかなと思っていたのですけれども、綾瀬さんに限らず、今回のプロジェクトに向かう全スタッフの意気込みたるや、すごいですね。こうやって話しているだけでもちょっとうるっときてしまうのですけれども、坂本さんも含めてそれくらい意気込みがすごい。
 綾瀬さんも、僕と一緒にタイトルバックといいますけれども、オープニング映像を撮っているときに、僕は4テーク目くらいでOKを出したのですけれども、結局、二十数テーク自分で申し出たりしながらやっています。綾瀬さんがここでちょっと濡れているのはなぜかというと、もうちょっとたったら発表されます(笑)。
 一番大事なのは、僕は実は「金沢の中で作家はいないか」と宮田さんなどいろいろな方にお聞きして、今回、『八重の桜』のオープニング映像に、金沢出身の福光彩子さんを起用することになっています。彼女の映像は2月です。「え、2月って何?」と思われるのですけれども、ここが言えるところと言えないところがあって、だんだん微妙になっていくのですけれども、1月は別の人がやっていて、2月に福光さんです。2月の1カ月間、つまり週一回ですから5回ですかね、福光さんの作品でオープニング映像になっていると。来週(12月11日)に正式に大々的にNHKから発表されると思います。福光さんはニューヨークなどで活動されていて、金沢出身なので、本人と金沢の話などもしましたけれども、こういった作品を描かれている方です。今はちょっと明るいのですけれども、すごく繊細に細かく、桜の花などが描かれています。ポイントとしては、実はデザイナー同士いろいろな話をするときに、「われわれは東北に何もできない」という話をよく聞くのです。「デザイナーというのはこんなにも無力か」というようなことを聞きながら、何かないかというときのこのプロジェクトだったので、特に若手にある意味チャンスを与えたいという気持ちで、福光さんをはじめいろいろな作家に声を掛けました。どういう作家が参加するかというのはNHKの広報に任せるとして、金沢からは福光さんが作品を出しています。恐らく2月はかなりの注目度になるのではないかと思っています。今これをアニメーションで作っています。綾瀬さん本人も東北を回ります。大河ドラマというのは終わった後に5分間の「ロケ地探訪」みたいなコーナーがありますが、あれを今回は綾瀬さんがすべて回るといいますから、やる気がすごいのです。東北のいろいろなおみやげもの屋さんや職人さんの工房などを回っていく。そういうことが計画されています。
 最後にキーワードとしてまとめますけれども、これは大学での研究のキーワードも入っています。いわゆる感性で動員することや、前後の脈絡がないのに、感覚的に引き寄せてしまうようなこと。感覚的というところが割と重要なのです。あとはエピソードメーキング。「もはやブランディングではない」などと書いていますけれども、ブランディングという言葉やブランディングという行為が出過ぎました。もはや差別化はほとんどといっていいほど無理だと思います。もちろんああいう歴史のあるものや圧倒的なものがあれば別なのですけれども。エピソードメーキングやストーリーテリングのようなところが一つのキーワードになっているのかなと思いました。
 あと去年や一昨年あたりから考え方として出てきているもの、これは主にニューヨークなどから出てきた、「スペンドシフト」という考え方があります。spend、つまり価値あるものにはお金を遣うよということです。もしくは、そこに価値があれば、何か形のないものにお金を遣う。先ほどの魚河岸の話や、恐らくコミュニティなどに皆さんすごく魅力的に感じている、そういう流れになってきていると思います。
 やはり冒頭の宮田さんなどのプレゼンなどにもありましたけれども、Pinterestみたいなものを使った、いわゆる気の合う者同士が自然とつながっていくような、そういうこともキーワードの一つになっているなと思います。「時を過ごす」「光と闇」などという切り口から入りましたけれども、やはり文芸的演出というようなところはものすごくデリケートで、微に入り細に入り、手抜かりなくという、いわばほのかなものが、実はすごく刺さるのではないかと思っています。やはりそれは匂わせる、伝えるとか伝わるという言葉もありましたけれども、さらに匂わせる、香るというようなところを大事にしていくことも、一つの課題なのではないかなと思います。
 いま、事務所のスタッフは20代、30代の若手ばかりです。彼ら20代、30代が東京駅をやってくれていますし、大河ドラマをやっていますし、イッセイミヤケなどもやっているわけです。経験が浅いから、若いからということでいわゆる深いものができないというわけではないと思うのです。やはり僕が思うのは、そういう微に入り細に入り、もしくはすごく深いようなものをきちんと若手たちとやっていく。先ほど、子どもたちが跡を継ぎたくなるような親という話もありましたけれども、僕は今度は現場にいる者として、いかに次世代に伝えていくかなど、そういう深みみたいなものをいかに一緒にやれるかということを、一つキーワードとして持ちたいなと思うのです。
 なので、「時を過ごす」というのは、いわゆる金沢が持っている時間にまつわる何かの魅力を浮き彫りにして皆さんに見せるということではなくて、いかに世代の違う人たちと一緒に過ごせるかというような、そういう大事なキーワードがあるなと思いました。
 この金沢学会も先ほど川島さんはすごい光景だと、僕も柄にもなく、あまり緊張しない方なのですけれども、すごく緊張する。やはりこういう場に、半分くらい20代がいてほしいのです。後ろにずらっとパソコンを持った若者たちがいるという光景を早く見たいなと思います。僕は大学生の19歳や20歳の人たちとしょっちゅう過ごしているのですけれども、もちろん粗削りで、若いのですけれども、一方で、文芸的演出というものに、多分、一番敏感に反応している世代なのではないかと思います。偶然にも今出ている『ブルータス』の特集が「文芸」という特集ですし、そういうアンテナが今あるのではないかと思います。長くなってしまいましたけれども、いわゆる文芸とか、そういう切り口でお話をさせていただきました。ありがとうございました(拍手)。

(大内) ありがとうございました。大変大事なキーワードをたくさんご紹介いただけたと思います。「文芸的演出」なのですが、それにしても僕は今菱川さんのプレゼンを聞いていて、JRもそうだし、メルセデスもそうだし、なんと戦略的に菱川さんをやる気にさせたかという、そちらの戦略がすごいなと思いました。要するに、菱川さんを夢中にさせる戦略を彼らは見事に持っていたということでもありますよね。そういう戦略を私たちは持たなければいけないのかなと思います。
 そろそろ時間ですが、ちょっと申し訳ないのですが、ごく簡単なものを私が用意しましたので、ちょっとこちらに切り替えてください。せっかくお二方から面白い話を伺って、最後にちょっとお茶を濁す感じなのですが、「遊楽都」に関して私が考えたことを、ごく簡単に、数分でご紹介します。
 「時を遊ぶ」というときに、実は遊びは文化なのだよということを、私はこの本にも書きましたけれども、梅棹先生にさんざん言われました。ところが、教育というのは投資なのだよねという。梅棹先生がよく言っていたことは、これは関係者がいると怒られるかもしれませんけれども、「教育関係者が文化を語るから、面白くなくなるんだよ」とよく言われていました。確かにそうで、遊ぶという行為はある意味で消費的行為なのですよね。それで何か対価を求めるということではないはずなのです。ある意味で、簡単に言えば、自分が満足するかどうかで計ることであって。ところが、教育は将来に対する投資ですから、これはある意味で見返りがなければいけない。多く、例えば現代美術などもそうですけれども、教育関係者が行くと一生懸命説明して、先ほどの菱川さんのプレゼンに応用して言うと、教育関係者はみんな一生懸命たくさんの情報を発信しよう発信しようとします。だけど結果的に伝わっていない。あまりにも多くの情報を教え込もう、伝え込もうとするために、結果的に伝わらないということをやっている。
 それからもう一つ、時を演出するときに、私が海外と行ったり来たりしていて思うのは、やはり日本のすごく優れた時の演出というのは、春夏秋冬の演出だと思うのです。皆さんご存じのとおり、日本の場合には、もちろんお庭などもそうですけれども、着物もそうですし、食べ物もそうですし、すべてが春夏秋冬、季節を愛でるということが日本の基本コンセプトになっているのです。ところが、ヨーロッパはどちらかというと昼と夜を違える。昼の世界と夜の世界は、明らかに彼らにとっては違う。女性のドレスも、昼間のドレスと夜のドレスは違いますし、男性も本当は、昼間は背広でいいのですけれども、夜はタキシードに着替えるという世界があって、そこをはっきり区別する世界がある。そこはきちんとわきまえなければいけないし、金沢の演出のときに、やはり金沢は非常に春夏秋冬を演出しやすい世界でもあるので、私はぜひそこは忘れないでいただきたいということが2番目です。
 三つ目は、古さと新しさの対比というのがあって、やはりこの金沢というまちは、幸いにも焼け残ったために、100年前、200年前、あるいはもっと前、場合によっては400年前のものが、何かそのあたりにころっと転がっている。それと新しさ、21世紀美術館ができたことによって、あの21世紀美術館が駅西側にあっても意味がないわけで、あるいはあれが東京にあっても意味がないわけで、あの旧市街にあるから意味があるということはそういうことですし、これからいろいろな方たちが金沢の町家でモダンアートをやろう、あるいは金沢の古い空間に上手に新しさを演出していこうということをやられると思うのです。そういうときにも、ある意味でそれは古さと新しさによって、時間を演出している。そこに物語があるわけですよね。これが新しいものだけだと物語はできないのです。そういう価値があるのだということも忘れていただきたくないなというのが、私が思ったことです。
 菱川さんのお話も、平野さんのお話もそうですけれども、今、若い人たちが僕はそれなりに成長しているなと思うのは、彼らももう既製品の世界やファストフードの世界にもうそろそろ飽きている。

(菱川) それ、分かります。すごく分かります。

(大内) ちょっとビビッドな感覚を持っている人たちは、飽きているのですよ。その次に行こうとしているのです。それでただもがいているのです。そこを上手に作ったりして、僕たちは若者を後ろからおっぺしてあげる必要があると思うのです。築地に面白さを感じる人たちも多分そうで、築地で買い物をするのはスーパーで買い物をするのと何が違うかというと、あそこで買い物をしていると、意外な情報や意外なものが飛び込んでくるのです。その違いがあるので、僕はそこをやはりきちんと考えなければいけないなと思って、金沢でもそういう演出の仕方はたくさんあるように思っているのです。
 お二方の話は大変面白く、皆さんもいろいろ具体的な話を伺えたかと思います。もう一度、人と人のふれあいや、今のマーケットでみんな何を求めているのだろうかということが築地にも表れていると思いますし、あるいは菱川さんがやろうとしていることにも、何か次の時代の、あるいは今既に非常に鋭敏な感覚を持っている人たちが求めていることが、多分そこに表れていると思うのです。

(菱川) 若手をいかに巻き込むかということは、本当に大事だと思いますね。火をつけるとすごいと思います。それは何となく僕は、ものすごいパワーだなと思います。(大内) そうですね。大学などでも、確かに大学は大衆化していますし、高校みたいな大学になっているという世界もあるし、文章が一つも書けないし、何とも教養のない人たちだと思ってしまう世界もある。ただ、現代にどっぷり浸かってきている中から、自分たちは違う世界に行こうとしている人たちも明らかにいる。それは多分、上澄みの1割くらいに、すごく鋭敏な感覚を持っている人たちがいるのですよね。そこをちょっと側面から育ててあげるということをしないと、多分、前衛に挑戦できないな、それが将来の伝統にならないなと思うのです。

(菱川) そうですね。例えば武蔵野美術大学で竹を研究しているグループがあるのですけれども、なぜ竹かというと、やはり日本の山がすごい竹害なのです。竹害だから竹を山ほど切って、それを材料にして何かやれという研究グループなのですけれども、やはり震災が起きたときに、竹のグループが真っ先に山に入って、竹をいっぱい切って「これで僕ら集会所を作ってきます」と言って行ったのです。あのパワーたるやすごいですね。それで1週間くらいで作って帰ってくるのです。「多分、台風くらいではつぶれないと思います」みたいな感じで。そういう彼らの世代が、自分たちが関わることによって、まちが変わっていく様子などを、われわれも一緒になって味わっていくことができたら、すごくいいパワーになると思いますね。

(大内) 多分、彼らは震災の被害を目の前にして、人間が生きるとはどういうことか、死ぬとはどういうことか、まちを失うのはどういうことなのかについて、リアリティーを持った。そのリアリティーの中から何ができるかということを自問自答しているのだと思います。そういう体験は今まで教育の現場でも与えていくことがなかなかできなかったし、親の世代が子どもたちに与えてこなかったのは僕らの責任でもあるので、そういう意味ではいいきっかけになっているかと思います。
 予定している時間がだいぶオーバーしました。明日また、今日のディスカッション、三つのセッションをベースに、今度は真ん中の皆さんをいろいろ交えながら、やりとりができると思いますので、今日の第3セッション「時を過ごす」はこれで終わらせていただきたいと思います。平野さん、菱川さん、どうもありがとうございました(拍手)。


米沢 寛(創造都市会議開催委員会実行副委員長/金沢経済同友会副代表幹事)

 本当に長時間ありがとうございました。今日のセッションはどれも、私どもにとっては至福の時間を過ごさせていただきました。去年の創造都市会議では「セレンディピティ」という言葉が飛び交っていまして、昨年は福光委員長がその言葉は「神が降りた瞬間」と訳していましたけれども、そういう瞬間が、セッションをそれぞれ聞いていて、たくさんありました。
 委員長からワークショップの中間報告をさせていただきましたけれども、これまで創造都市会議・金沢学会に、いろいろなヒントをいただいて、金沢のまちを実験場にワークショップをいろいろ行ってきて、それを行政や民間に受けていただいてきましたが、金沢の今日の機能や魅力としてうまく動いていると思います。2年半後に新幹線が参りますので、やれることはすべてやっておきたいと思っていまして、今日もいろいろな素晴らしいヒントをいただきました。明日の会議でそれをより議論をして深めていただきまして、われわれはそれをまた具現化するように動いてみたいと思っています。本当に今日は長時間ありがとうございました。(拍手)。


 

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第一日目  12月6日

第二日目  12月7日

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