■パネリスト     ■モデレーター
●伊藤光男 ●竹村真一 ●米沢 寛 ●金森千榮子
●伊藤 長浜のモニュメンタルな古い建物が黒い壁でしたので、会社名に「黒壁」とつけました。非常に多くの人が長浜に来ていただいています。それは結局、黒壁という第3セクターが「まちづくり会社」のように見られているからです。
 黒壁をスタートした当時、大体の地方都市は国道をバイパス化をして、郊外の幹線沿いに、ジャスコ、西友、ダイエーなどのナショナルスタイルの大きな店が出店し、古いまちの中がぐちゃぐちゃになり、人が来なくなる状況にありました。長浜は小さなまちですから、そういう意味で、中心地がなくなるというのは、長浜はどこに行ってしまったのかということになり、たまたま建物を買って黒壁をやりかけたわけです。実は、今はガラス屋をやっていますが、アートをやろうと思ったわけではありません。人を集めるためには何をしようかというところからです。人が来なくなったらまちでもないし、真ん中でもないわけです。まちの元気さは、人が集まらなければ意味がないわけです。その時分のガラスを素人の我々なりに調べたところ、日本中で非常にマイナーな世界だということです。近畿地区、中部地区、北陸も含めてかもしれませんが、ガラスをベースにして何かをやろうとしているのはなかったこと、大きな売り場や工房もなかったことから、ガラスをスタートしたわけです。決して文化財的な直し方はしませんが、おかげさまで古い建物をできるだけもとどおりにして、ヨーロッパのベニスのガラスを直に買って入れたのですが、それが非常に話題性を呼んだのだろうと思います。こうしてガラスを11年やって、今までに180万人ぐらい来ていただいたと推測しています。
  ところが、3年くらい前から少し変わってきまして、今はどうも黒壁を目的地にしていないで、長浜を目的地にして来ているのではないかと思われる節があります。景気が悪くなり皆さんが買わないということもありますが、その辺から黒壁の売り上げが前年比を割ってきました。長浜のまちを見ることを目的として遊びにきていただいていて、その入り口が黒壁だからそうなっていると思います。今のところ人が集まっていますから、まちを何とかしたいという点では成功したのかもしれませんが、黒壁という会社を運営していくのは、これからが大変です。どんな仕事でも10年たてば一度切りかえないといけないという話がよくありますので、どのように切りかえていこうかと考えています。 黒壁が、どのような影響を与えたかと言いますと、長浜に投資が始まりました。今まで商店主は絶対に自分の店なんて直しませんでした。しかし、人が来るようになると店を改造するようになったわけです。おかげさまで今、黒壁は30店舗ぐらいあります。長浜の小さなまち400メートル四方あたりで大体200軒ぐらいは手を加えたのではないかと思います。この10年間で建て替えたのはそんなにたくさんではありませんが、何かの手を加える、つまり何かの投資をしてきました。人に貸すために長浜の投資が始まったという感じはしています。
  外目から見ていますと、店を工事したりしているので、来られた方に、非常に元気があるなという感じを持っていただいています。また、それだったら何かやろうかと都会で勤めていた息子さん家族が長浜に帰ってきたということもありました。そういう意味では動きが出てきたと思っています。  しかし、あくまでもたった10年のことですから、これが続くかどうかは難しい問題です。継続させるためにはどうしたらいいのか。経済活動をしながら古いまちを残していくにはどうしたいいのか。建物が残る、残らないというのは大した問題ではないと思っています。結局は経済だと思いますが、そういうように回っていく状態があと一世代ぐらい引き継がれたら、もう少し続けるようなものが長浜の中で仕上がったと言えるのかもしれないと思っています。

●竹村 今のお話で、自分たちの地域が悪くなってしまうと自分たちの商売も成り立たないというのは至言です。アメリカの企業や行政などは、基本的にNPOやボランティアを見るようになっていると思います。つまり、単なる付け足しや暇な人が何かやっている、また奉仕活動というような二次的な位 置づけではなくて、この社会にはだれもやっていないがやられなければいけない仕事が山ほどあるということです。でも、民間企業がやるには儲けにならないことにはできないし、行政もそこまで細かいニーズに手が回りません。結局、成熟社会でニーズが多様化し、そういうものにうまく社会の血液であるお金が流れるようなボキャブラリーがそもそもないわけです。でも、今だれかがやらなければいけないので仕方なく何とかやっているのが、たまたまボランティアやNPOなどと呼ばれているのです。アメリカあたりは、日本で使っている二次的なボランティアの概念で埋め合わせられるような小さな規模ではなくて、本当にその部分の社会的なソーシャルワークが膨大にあります。ですから、本当は地域をよくするのは行政がやらなければいけないことであったり、あるいは銀行その他の自分たちがある程度やらなければいけないことを、自分たちは暇や概念がなくやれていないところを埋め合わせて肩がわりしてやってくれているのがNPOです。
 したがって、自分たちに回ってきたお金の一部は、本来自分たちがそういうことをやるのに使わなければいけなかったはずのお金です。しかし自分たちは仕事としてできていないので、それを代わりにやってくれている人たちへ流そうということです。だんだんそういうことになってくると、税金という「公のセクター」、パブリックセクターを1回経由して「共」、コモンのセクターに流れているような回路ではなくて、直接「共」にお金が流れるようにしましょうというコンセプトになります。例えば、アメリカでも企業体がそのようなNPO活動に寄附、援助をすると、それが免税対象になることはよくお聞きになっていると思います。それは、何も税制レベルの問題だけではなくて、基本的にやらなければいけない仕事があれば、そこにお金は流れるべきです。今までとりあえず「公」の税金というシステムを迂回して通 っていましたが、それを直接行くシステムをつくろうという概念です。 こういうことをつめていくと、結局我々の税金システムとは何なのか。そもそも、これからつくらなければいけない社会、こうありたい社会に合ったかたちで税金というシステムが成り立っているのか。その辺で先程whyやwhatと言いましたが、やはりそういうところから問い直さないとまちづくりも全然できない事態になってきているということです。国のシステムは、いきなりは変わりません。政治がこんな状況ですから当然動きは遅いのです。だから、そんなに待ってはいられないわけですので、やはり地域レベルで違う二次的な通 貨システムをつくったり、そういうお金の流れるチャネルをつくったりしなければなりません。やはり、高度成長期の途上国型の税金システムや貨幣概念というものを相対化するような自立的なシステムを、本当に地域という単位 でつくっていかなければならないわけです。
  税金の話ですから関係ないようですが、保険だと皆さんお入りになっているでしょう。しかし、「保険システムって何なの。なぜ、そんなシステムがあるの」というwhatやwhyのレベルで問うことはまずないと思います。しかし、もともとは非常に互助会的なシステムとして出発した、お互いにリスクを分有しましょうというボランタリーエコノミーなのです。だから、それに賛同する人たちがお金を出し合って、その共通 のお金のプールから、たまたま困ってしまった人、貧乏くじを引いてしまった人がそれによってサポートされます。病気になったり災害に遭うのは、みんなが同時にということは珍しい。しかし、リスクの確率はみんな同じなのですから、みんなでそのリスクを分有しましょうというボランタリーシステムなのです。
 今は保険や税金という制度が所与として与えられていますので、自分たちが変えうるという発想が全然なくて、税金は決まっているのだから払い、保険はあるのだからそれに合わせて入るのがあたりまえと思っている。そうではないのです。そもそもどこから出発したのかということ、それが時代に合わないというところから考えてゼロからデザインし直していくには、やはり地域という単位 しかありえないと思うのです。
 そういう意味でかつて「都市に対する対抗文化としての地域の時代」などという空虚なスローガンが振り回されていましたが、今は逆に都市も地域もなくグローバルエコノミーの大変な中に巻き込まれています。そこで、本当に自立的な経済単位 としての地域をつくっていかなければなりません。  今の長浜の試みも、別 のセッションでされている小布施のことも、そういう観点でアンチ都市という昔のパラダイムで見た地域づくりではないところでの本当の試みだと思います。僕もまだまだ不勉強ですが、そういう事例はずいぶんあります。実は、先程の「老化するお金」のコンセプトは20世紀初頭に出されています。今の日本の最大の問題は、1400兆円などといわれる大変な動かないお金です。これだけ資産は持っているのに、それが流れないので経済が全然活性化しません。なぜ流れないかというと、将来に対する不安があるからです。でも何とか流さなければいけません。第3の道として流した方が得になるシステムにすることです。どんどん使った方がみんなが豊かになり、新しい仕事や就職の機会ができるシステムがありうるのであれば、それを本当に鋭意にデザインすることです。
 地域通貨、あるいはエコマネーといわれる試みとしては、最近も雨後のタケノコのようにたくさん出ていますが、老化する貨幣、価値が目減りするというところまで含めた実験は、まだあまりないのです。でも、実は古く1930年代に実験されていて、このコンセプトそのものは1910〜1920年代からドイツを中心に出されています。またアメリカでもいわれはじめたのですが、ドイツではシュタイナー学校をつくったルドルフ・シュタイナーが有名です。非常に新しい考え方で人間学、教育のデザインをした人が、同時に経済のシステムについても「老化するお金」というコンセプトを出しました。また、同時期にゲゼルという経済学者がそういうシステムを提唱し、それを実践した例があります。そこは、世界恐慌のあおりを受けて不況だった村で失業者があふれていましたが、お金は使わなければ損をするというシステムを導入したことによって、どんどん新しい雇用ができて不況から立ち直ったという成功例もあるのです。
 では、なぜ成功した試みがポシャってしまったのか、あるいは先細りになってしまったのかといいますと、国家の方が不安に思ったからです。つまり、通 貨の発行権は国家権力の担保であるという発想で、成功したからゆえに鎮圧したのです。せっかく地域経済が活性化したのにそれを鎮圧してしまったので、そういう動きがだんだん先細りになってしまったり、地域通 貨の実験がされるにしても老化するお金のコンセプトまではあまり生かされなくなってしまった経緯があるわけです。ですから、今までのいろいろな歴史の中に、宝のようなヒントもあったりします。そういうところから、もう一度きちんと自分たちの地域や都市をリセットしていく方向をもっと考えられるのではないかと思います。それは今の長浜の話からつながっていくと思います。
 もう一つ、地域について今度はもう少しワークショップ寄りになるような例を挙げたいと思います。私の山形の友人が「マイ・ファースト・ニット」というプロジェクトを始めました。ニットはニット製品のことです。「マイ・ファースト・ニット」と聞いて、もしかしたらぴんと来る方もおられるかもしれません。ソニーの「マイ・ファースト・ソニー」というのがありました。ソニーのマーケティングは何でも非常にうまいと思います。「マイ・ファースト・ソニー」という乳児向けといってもいいようなシリーズの商品を出していました。つまり、ソニーというのは格好いい電機製品のブランド、シンボルなのですが、自分が人生の中で初めて使ったソニーはこれだと記憶に残るようなものをつくっていたわけです。ですから子どもでも使えるようなラジオやテレコなどを「マイ・ファースト・ソニー」というシリーズで出しました。それは非常にうまいマーケティング戦略で、それによって一生ソニーファンになってくれるようなお客さんをつくっていくわけです。  
  ただ、今日の話はマーケティング手法としての「マイ・ファースト」が本筋ではありません。子どもが最初に見たものを親と思うことを刷り込み現象といわれますが、そういう意味で最初に子どもにどういうかたちで何かに触れさせるかというところが非常に重要であることに眼目があります。
 山形市の隣町の山辺町というところはニット産業が非常に盛んで、まちの収入の大きな土台になっているにもかかわらず、残念ながらそのまちの子どもたちはニットにほとんど触れることもなければ、ニットにリアリティーを持っていないのです。なぜかといいますと、そういうところでのニット産業は地域に背を向けて東京ばかりを見ているからです。原料は外国や日本中から集めて、加工だけしてすぐに東京の市場に送っていきます。地元に地場製品が出回ることがあるにしても、1回東京の市場を経由したものだったりします。そういうシステムになっているのです。地域の基幹産業であるにもかかわらず、地域の子どもたちがそれに触れる機会は全くありません。自分たちの地域が何によって成り立っているか、自分たちの親がどういう産業に誇りを持って生きているか、そういうことが自然に教育の中で提供される回路がなかったわけです。
 この問題を解決するのに、私が地域づくりの将来の担い手として才能豊かな人だとひそかに期待している松田さんという若者がいます。その人は、もともと中学の教師で教育という現場にいたからでしょうが、ニットを早いうちから幼稚園に提供することがあってもいいではという発想がありました。しかし、子ども用品をつくっているわけではありませんし、そんな大事な製品をいきなり幼稚園向けに提供といっても何が可能でしょうか。残り糸がありました。生産したあとの糸くずはごみですがそれを幼稚園に持っていけば、使えるではないかという発想です。つまり、絵の具ではなくて残り糸で絵をかくとすばらしいアートになるという発想をしたのです。少しの実験まではしましたが、なかなか大きな動きにはなりませんでした。私もこういう場所でいっぱい宣伝しているのですが、これを生かさない地域はばかだなと思いませんか。このアイデアはすごく卓抜なのです。
 第1のポイントは、とにかくごみが資源になるわけです。ごみが資源というのは最近のゼロエミッション活動のキーワードです。ごみをごみと見ているのは人間であって、この世に絶対的なごみは存在しないわけです。プラスチックはともかく、ごみを捨てておけば大体はそのうち分解して土になっていきます。ごみは、微生物にとっては資源、食べ物だからです。つまり、人間という物差し、人間という視点を少し外して拡張してみればこの世に絶対的なごみはないはずです。ごみが資源になるようなコンテクストをつくればいいわけです。
 今までばらばらのセクターでごみ処理をしていたからごみが出ていたのです。それがネットワークすれば、ごみは資源になりうるということです。そこでネットワークという概念が非常にキーワードになってきます。結局、ニット産業という基幹産業と、そのまちでの教育産業、広い意味での教育セクターと生産セクターが別 々に動いていたからだめだったのです。ある生産工場でのごみも教育現場にいいかたちで持って行けば、それは資源になりうるのではないかということです。ごみが資源になると同時に、今まで地域に背を向けていた都市向けの生産現場と、地域の子どもたちを育成する教育の現場という今まで結びつかなかったものが、結びつきはじめるという第2の意味が出るであろうと思います。  第3に、何よりもそれによって子どもたちが、お父さん、お母さんたちはどういう仕事でどういう誇りを持ってやっているのか。初めてそれが可視化されるわけです。自分たちの親が本当にどういう価値観で何をやって生きているのかというところがなかなか見えにくいことも非常に地域づくりにおいては大きな問題だと思います。
 そういう3つの次元を一挙に解決するスーパーソリューションが、この「マイ・ファースト・ニット」です。このネーミングがまたすごいのです。子どもたちが最初にどういうかたちで自分たちの地域の産業に触れるか、その触れ方で地域へのイメージが変わるのではないか。そのときに「マイ・ファースト・ソニー」をもじって、最初にクリエーティブな絵をかく楽しい思い出とともにニットというものが刷り込まれるような回路デザインをしているわけです。ですから、その小さな、しかし十分に生かされていないワークショップには、無限のアイデアの宝が埋まっていると思います。これを金沢なりに考えていかれるときに、金沢地域でどんな素材を使い、どういうかたちで地域の産業と教育現場、あるいは大人の世界と子どもの世界をつなげていけるかという発想で考えるといろいろなものが出てくるのではないかと私は思っています。

●米沢 私自身もJC出身で、先程の社会縁とか血縁は薄れましたが、JC縁というのだけはずっと残っています。黒壁も元JC理事長がそろってやっておられるので、そんな勢いできているのだと思います。高校時代に東京にいたころ、金沢から来たと言うと、横浜の金沢八景しか知られていない時代でしたが、今は金沢と言うと、いいところから来ましたねと言われます。その間30年、たくさんの方にいろいろなまちづくりで頑張っていただいてここまできたのだろうと思います。  最初に「フェスタ」という夏の祭りをやらせていただきました。「フードピア」は金沢の冬を売ろうということで実験祭を5回だけやろうというのが、最初のコンセプトでした。何が一番よかったといいますと、県・市・商工会議所・同友会・青年会議所とのJVができました。コンセプトをつくることから運営まですべて外注するのではなくて、県・市・私たち同友会のメンバーでやりました。金森先生にもずいぶんお世話になりました。  官庁なりの考え方や民間なりの考え方などいろいろあったのですが、それが何年も一緒にやっていくことによって考え方が近づいてきて、県・市・同友会・JCの誰に聞いても、携わっている人は皆、同じ考え方を口にしました。そこから、来ていただいている人やお世話していただいている先生方に応援団気分になっていただいて「タダでも来てあげるわよ」という話になりました。1つのイベントから、来ていただいた人の個人のネットワークを金沢というまちのネットワークにつなげることができたということは、すごく大事でしたし、非常に勉強させていただいたと思います。  最近でも、様々なイベントをやっていますが、県は県だけ、市は市だけ、JCはJCだけというように、ばらばらにやっている感じになりつつあるというのは残念な気がしています。何か一緒の考え方でできるようなイベントや小さな運動などをすることが本当に大事かと思います。そのコネクティングを経済同友会ができないかという考え方を持っています。同友会のメンバーで現実に大野で実験をやっている水野さんから皆さんにご説明していただいて、そういうことをやってる方もいるということを皆さんに知っていただきたいと思います。

●水野 金沢に大野というところがあります。人口約2000人、600世帯ぐらいの小さな地区です。醤油や味噌の産地で今は28軒のお醤油屋さんがあります。そこには、もろみをつくっていた「もろみ蔵」が空いているのです。今でも38棟ぐらいの蔵が空いていまして、私は、それを何かまちを動かすために生かせないかということで、5年ぐらい前から関わり始めました。実は、そのときに長浜へ視察に行ったのですが、まちの目指している方向や規模が違ったのでだめだと思いました。それから数か月後に同じ滋賀県の高島町に行きまして、商工会のメンバーがお金を出し合って自分たちの手づくりで商家を買い取って改築してギャラリーやサロンをつくっておられるのを見て、あれならできるということで大野も動き出しました。当初のねらいは住民の人たちが寄り集まるサロンをつくろうということでしたが、いい空間なのでギャラリーや喫茶などとして使えたら、と始めたのです。最初は商工会のメンバー20人ぐらいで力仕事から始めましたが、コストを下げなければいけないので、職業訓練校の実習の一部としても作業をしてもらったりしました。あとは、ワークショップというかたちで共同作業をしましょうと呼びかけ、若い人たちが参加しました。そのように、結果 としてお金が出なかったので、ワークショップをやっていこうと進めました。 その広がりが少しずつ出てきて、コンサートをしたり、展示したりする空間が3年ほど前にできました。
 有名になったきっかけは「醤油ソフトクリーム」を作って売り出したことです。それが話題になったこともあり、学校帰りの地域の子どもたちや婦人会が集まる場として使ってくれたことや、遊びや立ち寄る場として使ってくれたことが何よりも大事な成果 として挙げられます。それだけではなくて、地域の人はお金や労働力はあるのですがアイデアやセンスがないのです。模型をつくってくれた人は美大の学生です。やはり、まちを動かすことに関心のある人たちが集まってくれるのです。いろいろな知恵を持ち寄って、何度も何度も話し合って決めていくのです。大野の人たちは蔵を使わせてあげるという土壌だったのです。だから我々もそういう場で実験をしようと思い、最初の1棟目ができ、2棟目の前に、小さな空間に庭を、若い人たちで企画、デザインしてつくりました。喫茶やギャラリーとしての運営が予想以上にうまくいったので、2棟目も改修を始めました。金沢美大卒業生で工房を求めていた3人がたまたまここに立ち寄って、ここに入りたいということで作業が始まりました。壁の一部は壊してガラスをはめたり、アトリエとして使えるように変えています。それだけではなくて、隣の松任市にいるお坊さんで映画のフィルムをコレクションしている方に映画を上映するのを手伝ってもらったり、いろいろと使い方を試しました。これは、2棟目のオキシドールという蔵の工房です。その下屋の部分のミニギャラリーもつくりました。
  次に3棟目です。ある程度軌道にのってきたので、その蔵をとりあえず10年でお借りしました。改修費は我々が持ってやりますが、無償で貸していただくということで、今工事中で3月末に竣工、4月1日にオープンします。美大卒のアーティストたちが工房を求めていたりするので、そこも住み着いて創作活動ができるようにギャラリー・アトリエに変更になりました。そのときから企画の中にだんだん輪が広がってきまして、今、現代美術館の準備室のキュレーターの方も何人か参画してくださるようになりました。
 金沢には演劇人がかなりいるのですが、その人たちのけいこ場がないという声を聞き、その練習場として使ってもらうようにしました。これは4棟目で、どんどん広げていこう進めています。  これからお金を集めなければいけないので、お金を出せる人には現金を出してもらい、アイデアを出せる人はアイデアを出してもらい、若い人は力仕事をやってもらうというかたちで、みんな対等にプロジェクトにかかわれるようにしました。そのときに、やはり先程出てきた地域通 貨というのが必要になってくると思います。「もろみ」という名前だけ決まっていてシステムは来月中には固まる予定です。寄附してくださった、あるいは労働を提供してくださったことに対してある一定の「もろみ通 貨」を発行して、それで大野に来てもらう、大野の物産を買うことに使ってもらうというかたちで、地域の経済と地場の産業とプロジェクトとつなげる意味で「もろみ」という通 貨を導入したいと考えています。 ワークショップは100回以上やっています。そういう積み重ねで方向性は何となく決まっています。大事なのはその蔵を有効に使うということもあるのですが、どうすればまちを動かせるかというその仕組みづくりで、その実験を今やっている最中だということで報告を終わります。

●米沢 大野はお寿司屋さんが有名だという程度にしかご存じないと思います。しかし1回行ってみると、あの醤油蔵街の新鮮さにびっくりすると思います。金沢はいろいろと見るべきものがあります。しかし、一番の弱点は回遊性がないことです。私も長浜に何回か行きましたが、長浜のまちは回遊性があります。お店自らが改装したのが200軒で、自分たちが仕掛けたの30軒あるというようにおっしゃっていましたが、壁がみんな黒いですから、全部に何か仕掛けられているのではないかという雰囲気でずっと歩け、ゆっくり見ながら歩いていると1日で見終わらなくて、もう1回行こうという気がします。  金沢も歩くとちょうどいいくらいのサイズで本当に楽しいまちです。ただ、弱点は観光バスで兼六園に来て、またバスで次へ移動することです。それを仕掛け的に、兼六園で降りたら、城の中を歩いて、大手町に下りて尾張町商店街を通 って、今できる蓄音館と菓子文化会館を見て、ひがし茶屋街へ行った先でバスに乗る。そうすると、たぶん半日はうまく歩いていただけると思います。市民にもそういう歩き方をしていただくのです。もう1つは、兼六園、城跡を見て、広坂の県庁跡地、そして今から仕掛けるせせらぎ通 りや武家屋敷を歩いて、またバスに乗っていただく。長浜の黒壁の回遊性をうまくヒントにして、それをどうつなげるかということです。その一つは、昨年のシンポジウムで竹村先生がおっしゃった空中ポストイットなどを途中途中で仕掛けられると、うまく歩いていただけるのかなという気はしていたのです。
金沢ラウンド誕生について
パネリストプロフィール
モデレータープロフィール
開会あいさつ
福光松太郎

プレゼンテーション
 水野一郎
 伊藤光男
 竹村真一
 米沢 寛
 金森千榮子
 市村次夫
 川勝平太
 小林忠雄
 大内 浩
 松岡正剛
 山口裕美  
 米井裕一
 佐々木雅幸
●セッション1
都心で実験してみたいこと
●セッション2
これから議論すべきテーマは何か
●セッション3
創造都市とは何か
 
全体会議のまとめ
委員長総括
実行準備委員会